1.


 桜の花弁が、舞う。
「じゃあ、とにかく健康には気をつけてね。毎日楽しく過ごすこと」
「大丈夫だよ、そんなに何回も言わなくっても」
 大きな門を背にして母親に手を振る。しばらくは会う機会もないだろう。ホームシックになったら……とりあえず電話でもしよう。
 母が角を曲がり姿が見えなくなったところで、穣誠人は門に向き直った。
 ――大学。
 これまで通い続けた中学校や高校なんかとは規模が違う。学校には古い歴史があり、建物はどれも大きくそれらが並ぶ敷地も広い。この梢葉大学は他校より規模が小さいと言われているが、それでも十分大きいよ、と改めて誠人は思った。
 そこで活動する人数だって半端ではない。今も多くの人間が校舎間の通りを行ったり来たりしている。人の波に流されながらキャンパス内を見て回り各校舎や施設の位置を確認し(しかし在籍中に、全ての場所にお世話になるとはちょっと思えない)、足を止めたのは講堂の前。既に二度、誠人がお世話になった建物だ。一度目は入試当日、そして二度目は、ついさっき終わったばかりの入学式。
(今日から俺も、この大学の学生、か……)
 掲げられた『入学式』の横断幕を見上げ、そんなことを考える。もっと偏差値の高い別の大学の滑り止め程度にしか思っていなかった奴も多いだろうが、誠人はここが第一志望だった。この大学で勉強したかった。そして今、自分はここにいる。希望に満ち溢れている、だなんてありきたりで安っぽい言葉を使うつもりはないが、これからの新生活が楽しみで仕方がないことは事実だった。
 実家が遠く離れている誠人は大学付属の学生寮に世話になることが決まっている。荷物は既に割り当てられた部屋へと運んであるが本当に運んだだけで(それも宅急便屋に任せて、だ)、今日の朝までは入学式に出席したがった母親の為に近くのホテルにいた。片付けはまだ済んでいないし、何より寮は今時珍しい四人部屋なのだが、同室のメンバーの顔をまだ見ていない。入寮式とやらもあと一時間ちょっとで始まるし、もう移動しておいた方がいいかもしれない。
 嬉しいことに、学生寮は西門を出て道路を挟んだ向かい側にある。高校は自宅から電車で一時間弱の所に通っていたのだが、朝はともかく帰りが遅くなることがなかなかつらかったのだ。しかしこれだけ近ければ、遅くまで学校に残っていてもそう困ることはないだろう。
 とにかくまずはその西門に出ようとして。
 ヤツがそこにいた。
 淡いピンクが覗く茶髪を短く刈った男が『入学式のしおり』の裏表紙に描かれたキャンパス内の地図を逆さまに見て首を傾げている。たまに顔を上げて周りを見回し、ずれた眼鏡を押し上げ、やっぱり首を傾げてまた地図に目を落とす。「ここが講堂で、あっちが文学部棟? じゃあ本部棟って何?」と呟いている。そんなことを言ってしまうのはさすがに上級生ではない、当然ながら誠人と同じ新入生だろう。
 ……。
「あの、どうしたんですか?」
 たまらず誠人は声を掛けた。相手はきょとんとこちらを見て、安心したように笑顔になる。姿勢を正した彼は長身で、決して背の低い方ではない誠人が視線を上げなければならないくらいだった。
「あー俺ね、学生寮に行きたいんだけどさ、この地図分かりにくくない?」
 しおりを指でつつく彼。残念ながら、誠人はむしろ分かりやすいと思ったのだが。
「えっと、分かりにくいっていうか、多分それは地図逆さまに見てるせいだと思うんですけど」
「だって講堂がここで今その入り口の前に立ってるでしょ?」
「や、講堂は北と南と二つ入り口あるんで」
 地図を正しい向きで持たせる。向かって左手の建物と地図の“文学部棟”の文字を交互に指差して「あれが文学部棟」、右も同じくして「あっちが本部棟」と言うと、彼はまた首を傾げた。
「んー、やっぱ分かりにくい!」
「分かれよ!」
 力が抜けたと同時にずり落ちた鞄を肩にかけ直し、誠人は左手、西門がある方に身体を向けた。
「俺もこれから寮に行くから、じゃあ一緒に行こうか」
「そうなんだ、同じ寮生か! よろしくー」
「うん、よろしく。それと」彼の頭のピンク――桜の花びらに目をやって、「頭の上のそれ、取った方がいいよ」
「え?」
 彼は芳澤悠と名乗った。誠人と同じ、経済学部だそうで……そういえば式の時、学部の列の前の方にこんな長身茶髪を見た記憶がある。周りより頭が少し飛び出ていたから、後ろの方に座っていた誠人からもよく見えたのだ。
「俺は穣誠人」
「何か名前みたいな苗字だな、珍しいね」
「あーそうだね」
「だってアメリカ的に言ったら……えーと」数秒視線を逸らして、何かを思い付いたらしく笑顔になり、「そうそう、『ジャック・トム』みたいなもんでしょ」
「……ジャック・トム、って」
「だってそうだろ、英語の教科書によく出てくる名前じゃん」
「まぁそうだけど」
 ジャックはジョンの、トムはトーマスの愛称であり、決して本名ではなかったように思うのだが。そこは突っ込んではいけないのだろうか。
 西門を出ると一車線の細い道路、その向こうが学生寮である。スーツ姿は新入生、私服で歩き回っているのは昨年から引き続きここで生活する二年次生だろう。その私服組がたいして周りを見ずに道路を渡っているあたり、普段から交通量が少ないに違いない。誠人たちもゆっくり渡る。
 寮は中央の玄関と食堂、ロビーだけ男女共通で行き来禁止。正面玄関から見て右側が男子寮、左側が女子寮だ。自分の学籍番号のプレートが貼られた下駄箱に靴を入れスリッパを出す。
「あとはもう自分の部屋分かるでしょ?」
 スリッパを履きながら訊くと、「おぅ、ありがとなー」と返ってきた。背の高い悠にとって、一番下の段の下駄箱は使いづらそうだった。
 合格書類を受け取る為学校まで来た時ついでに中の様子を見学していったし寮の管理者から来た封書で部屋の番号も知っていたから、部屋の場所はだいたい分かっている。右手にある階段で三階を目指す。上った先の角を右に曲がって奥まで歩く。
 ほぼ同間隔で足音がついてくる。
 通路右側の、一番奥から二つ目のドアの前で足を止めると誠人は振り返った。
「芳澤君、部屋どこ」
「ここ」
 誠人が立つ正面の部屋のドアを指差す。
 ドア横のプレートを見る。部屋の住人の名前が五十音順で並んでいる。
 笹川啓一。
 星野大祐。
 穣誠人。
 芳澤悠。
「えーっと……同じ、部屋」
「らしいね」
「じゃあ、改めて」
「よろしく」
 どちらからともなく、互いに深々と頭を下げた。



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