満月 〜世界〜


 さすがに上履きのままグラウンドに出る訳にもいかないので、玄関でスニーカーに履き替える。弁当箱をどうするのだろうと孝平を見ると、ためらっていたようだが下駄箱の中の砂を軽く払って入れていた。俺は何も考えずにごみ箱に投げ入れた。
 グラウンドに出て、委員長と同じように、まっすぐベンチに向かって走ってみた。途中で前を走る孝平が足を止めたので俺もならう。
「どうした?」
「あれ……」
「え?」
 フェンス脇に、ブルーグレーのスニーカーが片方だけ落ちていた。
 想像するに難くない。
 委員長の、だ。
 まさかとは思った。まだこんな、真っ昼間だ。満月が輝く夜中ではない。これまでは、午後十一時を回ってから“それ”は起こっていた。そんなはずがない。
 しかし委員長の行動は明らかに不自然。

 ……まさか、本当に、『隠された』なんていうのか?

 更に近寄ろうと一歩踏み出す。
 ぐん、と体が押された。
 前に進んでいるのは俺の意思じゃない。何かが、俺を、押しているのだ。
 振り向いても何もいない。代わりに首筋が冷たい。
 隣を見ると孝平も“訳が分からない”と言う顔をしていた。委員長もそうだったのか。ならこれが、委員長の行動の理由なのか。ということは、つまり……。
 また、背筋がぞくりとした。
 『また』、そうだ、前にも同じように感じた。
 あれは……そう、今朝、校門で三ツ月を見た時だ。
 そろりそろりと視線を上げていく。青い空、眩しい太陽。
 そして違和感たっぷりの月が、三つ。
 ……太陽が眩しくて、月が見えるだと?

「――――!」

 声にならない声、というのはこのことなのだろうか。凍りつくように寒くて、目は空を見たままで、それでも身体は前に進む。孝平が俺を見て、その視線をたどる。
 やめろ、見るな! と。
 言いたくても言えなかった。舌は上手く回らず、歯ががちがちと鳴るばかり。
 孝平が空を見る。
「うあ……っ……!」
 声は中途半端に噛み切られた。孝平は固く口を閉ざした。その見開かれた目を見れば、それが孝平の意思でないことくらい分かる。見えない手に押さえつけられているようにも見える。というのも、彼の顎が小さな指の形に凹んでいるからだった。
 “現代の神隠し”という例の言葉が頭の隅をよぎった。
 そして。
 これから俺がどうなるのか、何となく、悟った。
 抗う気力も失って、押す力に任せる。フェンスの前で一度止まった力は、今度は腕を持ち上げて指を金網に掛けさせた。足も持ち上げて爪先を引っ掛ける。隣では孝平が同じ様なことをしていた。是非客観的に見てみたい、どんなに滑稽だろう、あはは。笑うことすら馬鹿らしい、身体が思うように動かせないなんて。
 右、左、右、左。足が動く。一番上まで辿り着いて、力はこれで最後だと言わんばかりにえいやっと俺の背中を押し出した。

 落ちたところで見上げた世界は学校の外側ではなく、全く俺の知らないものだった。
 最初は真っ暗な空間だと思ったが、自分の姿も隣に落ちてきた孝平も見ることが出来る。どうやら、『暗』ではなく『黒』らしい。真っ黒な空間。
 目の前を何かが二、三通った。大まかな形は人間と一緒だがサイズは十分の一程度。耳は尖っていて横に張り出しており、両足の先は鯉のぼりのようにヒラヒラしている。まるで妖精のようだと思ったのは一瞬で、異様に長い両腕と紫色の身体、赤い髪の奥で光るギラギラとした黄色の目はおどろおどろしさを感じさせた。孝平の顎にへばりついていたところを見ると、こいつが見えない力の正体らしい。
 孝平が顎からそれを払い落とすと、そいつを先頭に、俺たちの体にしがみついていた奴らが次々と飛び立った。

 キ……キ、キ…………キ
 …………キキ……キ……
 キ、キキ……キ…………

 一匹、また一匹と音を発しながら群れを成していく。列が切れない。一体どれだけいるのだこいつらは。肩越しに背中を見る。
 見なきゃよかった、心底思った。
 十や二十じゃない、おびただしい数の紫が背中にうじゃうじゃと張り付いて、その倍のギラギラした目がこちらを見返していた。ぞわりとした。
「うわああっ……」
 どうしていいか分からずに、無意識に両肩を払う。奴らは一斉に俺から飛び上がって、あの冷たいヒラヒラした足で、ざわざわと俺の首から頬を撫でていった。
「う……」
 必死に両手で、首と頬を何度もこする。
 鳥肌が治まらない。
 こすりながら、ガクガクする膝で何とか立ち上がった。顎をさすっていた孝平も立ち上がらせ、周りを見回してみる。
 何もなく、ただ、奴らが飛んでいった方向に白い筋のような跡が残っていた。この黒い世界で知覚出来たのは紫と自分たちと、この足元から延びる筋。それも消え始めている。
「どうしよう」
「どうしようって……」
 他には何もない。ここは知らないところ。もう奴らの姿なんて見たくもないが、ここでじっとしていても仕方ない。それに、委員長のこともある。彼女はどこに……あの、紫が向かった先にいるのだろうか。
 俺たちは、どうすることが出来る?

 行ってみるか、なんて言わなきゃよかった。今更思ってももう遅い。
 白い筋の両脇からギラギラした目がこちらを見ている。紫が視界に入る度に寒気がするのだが、だからといって後に引くことも出来ない。振り向いてみたら、確かに消え始めているとは思っていたが、道代わりの筋はもう消えてなくなっていたのだ。どこから来たのか、もう分からない。これでは前に進む他ない。
 あのままあそこに留まっていたらどうなっていたか、先に進んだらどうなるのか、全く見当がつかない。どちらの選択肢が正解なのか、俺には分からない。今はこちらが正解なのだと思っておきたい。
 また紫の奴等が俺たちの周りをヒラヒラと舞い始めた。
「来るな!」
 足を止めて腕を振って、紫を追い返す。しかしそんなに必死になることもなくて、奴らは首を縦に振るとあっさり離れていった。
「何だ……?」
「一都」
「!」
 孝平に袖を引っ張られて正面を見ると、そこには人(の形をしたもの)が立っていた。長い髪も地をはうような服も漆黒で背景と同化している為、顔が浮いているように見える。
 口が裂け、にぃっと笑う。美しい赤が覗く。
「君たちも、迷い込んだんだね」
「……俺たち、『も』?」
「そう、君たちも」
 キキキ……という紫の声に振り向けば、奴等が小さな山のように密集している。小さな身体の透き間から見えるのは、濃紺の制服。
「委員長!」
「イインチョ、っていうの? この子。じゃあイインチョを……」
 霧が晴れるかのように、頭上の黒の空間に三つの月が現れた。月たちも、奴と同じように口が裂ける。

「いただきます」

 片方靴の脱げた足がパッと粒子になった。爪先からさらさらと空へ、月の口へ昇っていく。
 中身のなくなった靴や靴下、スカートがくたびれて地面に潰れる。
 孝平が前に出た。
「お前……! 神山さんは!」
「食事中に話し掛けないでもらえるかな」
 頭から足の先まで、ピシピシと音を立てながら、瞬時に孝平は凍りついた。そして、ガシャンと、内側から砕ける。血まで見事に凍っているのか、そんなものは流れない。指だとか耳だとか、パーツを残しつつ、孝平が分解される。
 俺は慌てて口を押さえた。
「持ってお行き」
 奴が言うと、紫は孝平に群がり、両脇にひとかけらずつ抱えて飛び去った。見ないように顔を伏せたが、紫は嫌がらせのように俺の前を飛んでいく。
 焼きそばパンとの再会はごめんだ、と思っていたのに、凍った孝平の目玉と視線が合って、腹の中のものを全て吐き出してしまった。
「……っう……」
 頭がぼうっとしてきた。
 目の端に映った、委員長のこちらに突き出されていた手も粒子となった。
 髪の毛の最後の一本まで月は『食べ』切った。
 パサリと落ちたセーラー服やら何やらは紫が持っていった。
 気付けば、俺の左手の指が五本ともなくなっていた。
 五本の指は、さっき吐き出した池の上に浮いていた。右手で左手に触れてみると、左手の肉がボロボロとこそげ落ちて骨が顔を覗かせ、右手の人差し指もぽっきりと折れた。俺の身体からも、やはり血が出なかった。
 気持ち悪い、とか。
 痛い、とか。
 感覚がもうなかった。
 学生服の袖をまくり上げ、残った中指と親指で肘から手首までを裂いても同じことだった。何も感じず、痛いとも思わず、血も滲まず、肉が落ちていく。
「君も狂っちゃったんだね」
 その声に顔を上げても、視界がぼやけてよく分からない。眼鏡がないのか目が見えなくなったのか、それとも目が朽ちてしまったのか、それすら分からない。
 やがて、触れずとも身体はこぼれていった。
 指先の骨から、ボロボロの肉に落ちる。
 もう何も聞こえない。
 何も見えない。

 そして肉の中に。
 壊れた。


 崩れた一都の身体がもぞもぞと動き出した。紫の小さな手が、赤い髪が、黄色のギラギラした目が這い出てくる。
 身体にこびりついた肉を払い落とし、周りを漂う紫たちの中に消えた。
「君も、魂だけの存在になっちゃったんだね」
 残った亡骸と制服に問う。
「日本とアメリカの戦争は、もう終わったの?」

 ずっと昔に、この世界に迷い込んだ。同じく迷った他の子供たちは皆、喰われるか、朽ちた。
 彼女だけが狂いもせず、朽ちもせず。
 それまでここにいた“誰か”はここからいなくなった。
 代わりを見つけなければ、ずっとここに留まり続けなければならないことを――

 ――悟った。

 帰りたかった。
 帰りたかったから子供を喰った、喰い続けた。
 子供は大人にない力を持っている。力は月を呼び込む。喰い続けた結果、空間を歪めることが出来るようになった。祖国の空に異世界の月をも呼び込むことも出来るようになった。
 そして、更なる月の力で、子供を喰らう。
 だが、“欲しい子供”は現れない。
 ここに留まる子供は現れない。

 ぶわり、と風が吹いて、かつては肉だったがもう灰になってしまったそれを飛ばす。灰は地に吸い込まれ、この世界の礎となる。狂った子供は力に、朽ちた子供は世界に、例外的に凍った子供は魂の力になる。そうしてここは成り立っている。ここはそういう『世界』。
 灰の中から姿を現した眼鏡を拾い上げてみた。制服は、やはり紫が持っていった。アレはもしかしたら制服の持ち主の魂だったのかもしれない。しかし、今となってはもう分からない。
 眼鏡を月にかざしてみた。

 赤紙が来て戦争に送られたお父さん、お兄さんは。
 お母さんも、疎開をした弟も、今はどうしているのだろう。
 会いたい、皆に会いたい。

 目の補助をする眼鏡も、彼女の望みを見せてはくれない。

 彼女の純粋な願いが叶うことはなく。


 子供がまた、姿を消した。



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