満月 〜異常〜


 朝はいつも通り始まった。いつもと同じで何の刺激もなく、平和な、言い換えればひたすらつまらない一日の始まりだった。それが事実なのだからその通りに受け取ることしか出来ない。そして終わりまでいつもと同じなのか、それはまだ、誰にも分からない。
 とにかく今朝は昨日と変わらぬもので、俺は機械的に動き出した。

 目覚し時計が鳴り始め、ほどなくして起きる。制服に着替える。型は一般的な学生服だが色は濃紺、ここ周辺でそんな色の学生服は俺の通う高校だけだ。
 その他身支度を整えてリビングに入ると、先に起きていた四つ年下の弟がテレビを見ながらトーストをかじっていた。父も母も、当然のごとくいない。もう出掛けたのだろう……いや、父は“まだ帰ってきていない”のか。父は大学教授、専攻は物理。文系人間の俺にはよく分からないが、とにかく研究で今は特に忙しいらしく、帰ってきても洗濯物を残してすぐまた出掛けてしまうことの方が多い。母は小学校の教師で、今日は日直だとか何とか言っていたから早めに出ていったのだろう。
「兄貴おはよう。卵が二つとハムと、ベーコンなら少し残ってるから」
「ん。……何か野菜は?」
「自分で見てよ、知らないし」
 弟の皿には焼いたベーコンと少し焦げたオムレツだけが乗っている。
「野菜食べろよ」
「だって俺急いでるし。もう学校行かなきゃ」
 急いでいる奴が呑気にオムレツなんか焼くなよ、と突っ込みかけて、やめておく。ほとんど活動のない新聞部でふらふら遊んでいる俺と違って真面目にバレー部員している弟は、新人戦を来週に控えている。それに備えて朝練に出席するのだそうだ……ご苦労なことで。
 グレーの箸箱が目に留まった。
「京次、箸忘れるなよ」
「分かってるよ」
「今しまっとけ、絶対忘れるから」
「ひっでぇ……信用ないのかよ俺」
 トースト最後のひとかけらを口に放り込んで箸箱を通学鞄に突っ込む。俺はといえば、冷蔵庫を覗いてピーマンとタマネギ、ミニトマトを探していた。チーズとバジルも見つけたし、ちょうどいい。
 食パンにケチャップを塗り、適当に切ったピーマン、タマネギを乗せる。危うく賞味期限を切るところだったハムと、それからチーズも乗せてオーブントースターに入れた。簡易ピザの完成だ。
 焼いている間にミニトマトを半分に切って、フライパンに流した溶き卵に、バジルと一緒に乗せて包む。これだけでイタリア風オムレツになる。
 ……女々しいなぁ俺、と感じるのは気のせいか。
 家を出る支度を終えた弟が鞄を拾いにリビングへ戻ってきた。
「うっわ、ゴーカだな」
「そう思うんならお前もこのくらいやれよ」
「兄貴と違って俺は忙しいの」
「あ、そう」
「それに俺男だし」
「俺もだけどな……」
 だいたい、そんなに『忙しい』と主張するならさっさと家を出ればいいのに。
 そういえば、随分ゆっくりとしているが俺は学校に間に合うだろうか。壁時計を見上げれば、文字盤はまだまだ余裕だと告げている。それならテレビでも、と思ったが、先ほどまで弟が見ていた番組は芸能ニュースを報じ始めている。チャンネルを変えても似たような話(誰それが婚約、とかそういう話題だった)ばかり、面白くない。芸能事情に疎いゆえ、尚更。仕方ないのでテレビを消し、三時間近く前に配達されたばかりの新聞を広げた。
 一面に載っている写真に、自然と目が移る。
 夜空に浮かぶ、三つの月。
「『不吉の三ツ月』ねぇ……」
「それ、さっきまでテレビでやってたよ」
「お前それ見てたのか」
「うん」
 地球がもつたったひとつの衛星、月。たったひとつしかないはずの月が、四カ月前から三つ観測されている。それもなぜか、日本上空のみでの現象らしい。現在午後九時半のイギリス、ロンドンや午後十時半のフランス、パリで観測されている月はひとつしかないという。なぜこんな現象が、それを解明すべく、国外から科学者がやってきて調査を進めている。母の話によれば、父もその調査に関わっているらしい。
 今分かっていることは、日本上空の空気密度が異常なまでに高いということ。逆にその周辺は極端に薄くなっているのだとか。空気中の水蒸気が通常より増加している為、より多くが上空で冷やされ水となり、スクリーンとなる。密度の変化に伴い屈折の仕方が変わった太陽光が、そのスクリーンに像を映し出しているのだ。
 そこまでの調査は簡単に進んだ。しかし、一部だけ密度が高くなる、などあり得ない。気体分子は空間を自由に飛びまわっている、その場に留まったりしない。このことは現代の科学で十分に証明されている。ならばなぜ、大気の変動は起こっているのか。
 更に、上空の水のスクリーンに映るのは月だけだった。他の星、太陽や金星は、やはりたったひとつしか見えないのだ。その理由も全く分かっていない。
 問題になっているのは、それだけではなかった。
 満月の夜に一人ずつ、子供が忽然と姿を消している。
 最初は大阪で、塾帰りの高校生がいなくなった。高校生が姿を消した時、警察はまず家出の可能性を考えるもの、この時もそう思われていた。しかし家族がいくら捜しても見つからない。見つかったのは、塾校舎の面している通りから一本裏の道に落ちていた高校の生徒手帳だけ。そしてひと月後、北海道で全く同じようなことが起きたのだ。
 その後、静岡で事件が起こった。さすがに三件目ともなれば、偶然とは言えなくなった。何かひとつだけ所有物を残し、子供は消えていく。学習塾は満月の夜の授業を休講とし、親は夜に子供を家から出さないようになった。偶然だと言い張り授業を行った福岡のとある塾に通う生徒が一人消え、その塾長は塾を畳んだ。
 マスコミは沸いていた。この不思議な現象を逃がすはずもない。
 次はどこで事件が起きる? いったい、誰が消えてしまう?
 警察も自衛隊も手は出せない。
 これは“現代の神隠し”。

 そして今日、五番目の満月が現れる。


 家から歩いて十五分で通えるし、学力レベルもそこそこ。親にも中三の時の担任にも「もっと上の学校に行けるだろう」とか何とか言われたが、俺はこの高校への進学を決めた。わざわざ電車に乗って遠くの学校に通うよりも、近い方が楽でいいと思ったからだ。
 今日の一限は何だっけ、そうだ生物だ。宿題はあったっけ……。ぼんやり考えていると。
「……と! 鈴木一都!」
 フルネームで呼ばれた。気付けば女子が隣を歩いている。わざわざ自転車を押して、だ。
 クラス委員長だから“委員長”と呼んでいるが、名前は……確かユマ、神山由麻……だった気がする。
「ああ、委員長」
「やっと気付いてくれた! さっきから呼んでたのに、鈴木君気付いてくれないんだもん」
 当たり前だ。鈴木なんてありふれた苗字、学年にあと六人いる。他の学年も合わせれば、その倍はいるだろう。「鈴木君」という声は聞こえていたが、俺のことじゃないとも思っていた。
「悪かったな。おはようございます委員長殿」
「よろしい」にこりと笑って「おはよう」
「あ、ユマおはよう!」
「おはよーめーちゃん」
 俺に軽く手を振ると、委員長はまた自転車に乗った。声を掛けてきた隣のクラスの女子と一緒に、だんだん小さくなっていく。委員長はともかく、隣の彼女のスカートが際どい。見えそうで見えない。女の子ってのは、“見えそうで見えないライン”の研究でもしているのだろうか。
 ……気にしているなら太い美脚は見せなきゃいいのに、とも思う。絶対、口に出しては言えないが。
 不意に、ボスッと背中をリュック越しに殴られた。それほど強くもなかったが、ある程度前につんのめる。同時に眼鏡が鼻からずり落ちて、視界の上三分の一がぼやけた。
「おっはよう一都クン! 今日は眼鏡だね!」
 と奴は言うが、こちらは毎日眼鏡である。これがないと危なっかしくて生活出来ないほどに、俺の目は悪い。
「……随分なごあいさつだな孝平……」
「そう?」
「もう少し平和的なあいさつってのが出来ない?」
「結構今のは平和的じゃない?」
「……そうかい」
 何となく疲れた気がした。それ以上言いたい言葉もなかったし、取り敢えず眼鏡を押し上げた。
 渡井孝平、彼もクラスメート。彼とは中学の時からの付き合いで、俺と同じ徒歩通学仲間である。表裏がない……と言えば嘘になるかもしれないが、少なくとも俺は、孝平の“裏”の顔を見たことがなかった。人当たりがいい、昔から付き合いやすい奴だ。
「ね、一都、英語の予習やった?」
「リーディング? ライティング?」
 と訊いてはみるが、実はどちらも予習済み。塾に通っていない分学校の授業くらいは聞いておかなければならない。面倒だと毎日思うが、学生という身分上仕方のないことでもある。それを向こうも分かっていて訊いてくるのだから、そもそもこれは意味のない会話ということになる。
「ライティング。英作文当たってるのに分っかんなくて」
「六限だっけ」
「そう」
「じゃあ昼休みに」
「やった!」
 そんな会話をしながら校門をくぐった。生徒用昇降口の上に掛けてある時計を見、五分の余裕があることを確認する。
 更に上に視線をずらす。
 白い月が三つ、うっすらと並んでいる。
 なぜだかものすごく、背筋がぞくりとした。
 母が仕事で朝早い日は、さすがに俺も弁当を作るのはかったるいし、昼は食堂で済ます。この日ばかりは給食をしっかり出してもらえる中学生の弟が羨ましい。昼はどうしようなんて考えなくていいのだから。
 孝平に英語の話を持ちかけられる前は、ラーメンにしようかカレーにしようか、ラーメンだったらやっぱり醤油だろ、なんて考えてもいたが、まさか食堂で英語をやる訳にもいかない。基本的に教室よりうるさいし、環境がよろしくない。
 考えた結果、食堂で売っているパンを先に買っておき、昼休みになって孝平と屋上に上った。風はなくて陽も出ているから暖かい。人も少ないので静か。実によろしい。
 焼きそばパンにかじりつき、たまに孝平の弁当をつつきながら(卵焼きを戴いたら嫌そうな顔をされた)問題となっている日本語を見る。文を作る上で骨となる構文、熟語を確認させて、それらしい文章を作らせる。減点方式で採点されたらそこそこの点は取れそうなものが出来あがった。
「サンクスーよかったー」
「じゃあお礼としてもうひとつ卵焼きを」
「それは駄目。あ、梅干しなら」
「それはいらない」
 今俺たちが座っているところから向かって左、校舎の北側にはグラウンドがある。中学の時とは違い、昼休みに外で遊ぶ奴なんていない。休み時間の校庭はがらんとしているものだが。
「あ、神山さん」
 孝平が立ち上がってフェンスを掴んだ。俺もその隣に立ってみた。
 確かに、俺たちの着ている学生服と同じ、濃紺のセーラー服がグラウンドを歩いている。が、俺にはあれが委員長かどうかなんて分からない。眼鏡はあまり度がきついとくらくらするので、日常生活に差し障りがない程度に度を落としてあった。
「委員長? 本当に?」
「俺が言ってんだからー、当然でしょ」
 視力2.0が言うのだからその通りなのだろう。
 四限は体育だった。おそらく、何か忘れ物をしたのだろう。それを取りに行ったのだ。彼女の向かう先のベンチに、それらしいものも置いてある。
 しかし委員長はそれをも通り過ぎ、学校の敷地を囲むフェンスをよじ登って外へと出て行ってしまった。
 破る者もいるにはいるが、無断外出は校則で禁止されている。委員長はそんなことをするような人ではないはずだし、仮に、許可を取ったのならあんなところから出て行く訳がない。それに……こう言うのもなんだが、委員長は運動全般苦手のようだ。去年、今年と、体育祭でその活躍ぶりを拝見しているので知っている。その彼女がフェンスをよじ登ろうなんて考えるだろうか。
「どこ行くんだろう……」
 俺が呟いた時にはもう、孝平は弁当箱を畳み終えていた。
「……孝平?」
「追っかけてみない?」
「はぁ?」
「あの神山さんがどこに行くのか、非っ常に興味があるね」
 さっさと階段を下り始めた孝平を放っておく訳にもいかず、パンを食べた後のごみをビニル袋にひとつにまとめると、学生服のポケットにそれを突っ込み孝平を追いかけた。



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