8.神のおとずれ


 陸上にある建物を借りてそこで眠ればよかったものの、実はこの島は無人島だとかで、そのような建物など存在しないらしい。翌朝明るくなって、太陽の下で島を見て、理解した。
 この島は一本の大きな樹が成したものだったのだ。
 海底深くに根を下ろし、幹は海面から約十メートル浮いている。昨晩見た柱とはこの樹の根、横穴とは根の隙間。そして船は、根の間をぬうように進んできたのだ。
 根元で何本にも分岐した、太い枝にも見える幹が絡み合い、螺旋を描いていた。幹の螺旋は一度開いて放射線状に広がり、弧を描いて、更にその上で再びきつく結ばれている。その形は鳥籠に似ていた。
 甲板に整列した学生を前に、フロラ先生が言葉を紡いだ。
「有史以前からこの世界で生き続けていると言われているこの“始まりの樹”は、全ての植物の祖であることが分かっています。この樹がオリジナルで、他の植物はここから分化したものなのです」
「また、神の歴史でも“始まりの樹”は重要視されてきました。海底から水面、そして空へと高く伸びるこの樹は、天と海底をつないでいる、神が天から地へ移動する際のはしごであると言い伝え、現在も神殿の保護対象となっています。言い伝えは神殿が保管する文献にも残っていますし、何より皆さん、そんな童話を読んだことがありませんか?」
 ベルグ先生の言葉に、何人もの学生が頷いた。幼い頃に読んだ絵本にも、そのような樹が登場していた。その神話の世界が、今、目の前にある。
 昨夜は樹の根元、海底に棲む生物を目の当たりにした。大陸にはない、ここでしか見られない光景。そして“始まりの樹”。今日はここに上陸する、それが課題だとシュレー学校長が言っていた。
「学校長、保護対象であれば、関係者以外立ち入り禁止なのでは?」
「許可なら既に神殿からもらっておる。『特別講義』だからな」
 その台詞で、リベルは昨夜夕食の前に見た神殿兵を思い出した。海の上で神殿兵たちに出会ったのは偶然ではない。神殿保護という義務を果たす為に、彼らはあの場にいたのだ。
 昨夜も厨房で腕をふるってくれた料理長から学生たちが弁当を受け取っている間にも、上陸の準備は着々と進んでいた。海面ぎりぎりに伸びる根の横に船がつけられ、根に打ち込まれていた杭にロープを投げる。しっかりと結び、船を樹につなぎとめる。もう一カ所同様に結びつけ、揺れを最小限にしたところで、船から根へと板橋がかけられた。
「神殿の協力あっての、今回の特別講義である。このことをよく理解し、神に感謝して島に降りるように」
 そう声を張り上げ、学校長は学生たちを見回す。それに呼応するかのように風が吹き、梢がざわめく。それはまるで島の返事のように感じられた。
 まずは船員が、次に学校長、それから学生たちが次々と船を降りた。
 島の探索というよりは、登山……いや、木登りのような感覚だった。幹の螺旋に沿って“鳥籠”を目指す。昨日とは打って変わってシンプルなパンツスタイルのメーアは、スタートでは一緒だったのにするすると登っていき、気付けば随分前の方に行ってしまった。斜面を登っているので、先を歩くメーア、先頭を切るシュレー学校長がよく見える。それに対して学生最後尾を務めるリベル、その後ろにはベルグ先生がしんがりとして構えていた。ゆるゆるマイペースに歩くリベルに合わせてベルグ先生も歩を緩める。暑いのか、いつも背中を覆っている長い金髪を、今日はポニーテールにしていた。
「上まで結構歩くんですか?」
 訊くと、「そうですねぇ、歩きますよ。ほぼ上下の移動なので直線距離はたいしたことないのですが」
「要するに大変なんですね」
「そう言わず登ってくださいね」
 幹が絡むその隙間から、小さな花が顔を出していた。“始まりの樹”に根差し、その甘い香りが風に乗っている。この花然り、ヒカリゴケ然り、光る魚然り。皆、“始まりの樹”と生きている。この樹は命の源である――そう、理解した。
 朝食後すぐに島に降りたはずなのに、今ではもう陽が真上にある。船を降りる直前に渡された弁当を食べ、休憩を挟みつつ“鳥籠”を目指す。大変だという割には、思ったほど疲れていない自分に、リベルは気付いた。随分歩きやすい道なのである。歩いている樹の幹、枝表面が、局面でなく平面であることに気付いたのは、全体の三分の二も登った頃だった。のべ何人もがここを通り、表面をすり減らしていったに違いない。
 初めに気付いたのは香辛料の香りだった。
 この樹が他の生物と共生しているからといって、いくら何でも香辛料は自生していないだろう。ひとつふたつでなく、複数種類の香りが漂っている。間違いなく、他から運び込まれた香りだ。
「……あ」
 何を思ったのか、声を漏らしたフェフが先を急ぎ始めた。メーアを、学校長をも追い抜き、誰よりも先に“鳥籠”に足を踏み入れる。
 残り八人の学生も駆けだした。走りながら、リベルは昨夜、食事の時にフェフと話したことを思い出す。確かに彼は、「俺の実家は香辛料作ってるんだ」と言っていた。この香りがフェフにとって嗅ぎ慣れているものであるならば。彼の実家、指定造屋で作られた香辛料であるならば。この香りがあるべき場所は神の御前であり。
 そして“鳥籠”に飛び込んで見たものは。
「――!」
 美しい大理石で出来た神殿だった。
 決して広くない“鳥籠”に、祭りの屋台ほどの小さな神殿が構えている。その前で膝を折っているフェフ、彼の視線は神殿前に並べられたつぼに向けられていた。一礼し、手に取る。蓋を開ける。アニス、フェンネル、サフラン……見慣れた数々の香辛料。そして極めつけは、蓋の裏に彫られた彼の実家の紋だった。
「うちの香辛料だ……」
 彼だけではなかった。果物、その果物を盛っているガラス皿、絵蝋燭、飾られた刀剣、筒状に巻かれ山と積まれた布、麻袋の中身は小麦だろう。
 これらは全て、ここにいる学生の実家で作られたものだった。
「うちで育てた花だわ……」
 メーアが呟くのと同時に、リベルもまた酒瓶に目を奪われていた。見間違えるはずもない。神殿に出荷する時にだけ使う凝ったデザインの瓶、聖酒のラベル、それが今、神の御前に備えられている。
 両親が、兄が、代々造ってきた酒が。
「この神殿が建てられたのは、今から千年以上も前になります」
 その声に、一斉に視線が集中した。
「もっとこの樹の背が低かった頃、この“鳥籠”が今よりも海面近くにあった時にこの神殿は建てられました。しかし樹は生きています。この神殿をもち上げながら成長を続け、今のような形になりました」
「千年もの間、そうですね、千年もあれば人の営みは二十代くらい繰り返されますよね。それくらい、いえ、それ以上、君たちの代々の先祖は神と過ごしてきたのです。そう思うと、少し見方が変わりませんか? 君たちが敬遠してきた指定造屋の仕事に対する見方が」
 一学者としてこの樹を調査したフロラ先生、そして、神殿とそこに残る書物を調査したベルグ先生。これまでに、長い歴史を調べ上げてきたに違いない。だからこそ言える台詞だった。
 シュレー学校長が、黙りこくる学生たちの前に立った。
「この特別講義、ひとつ目の課題はチケットを受け取るところにあった。未知に対する好奇心、それは学ぶ上でとても重要な要素である」
 封筒を受け取った瞬間から講義は始まっている、昨日のベルグ先生の言葉の意味がようやく分かった。封筒を受け取った時点で既に、リベルたちは試されていたのだ。それに合格した、つまりチケットを手に港に現れた者にだけ、次なる課題が与えられてきたという訳だ。
「君たちはまだ学生だ、君たちはまだ視野が狭い。学校で学んで多くを知った気になってはいないか? 身近なものから目を反らしているというのに、本当に君たちの知識は豊富になっていると言えるのか?」
 一瞬。
 しん、と静まり返る。
 ある者は気まずさに目を反らし、ある者は「それは、その……」と口ごもる。
「しかし君たちはまだ若い、君たちには時間がたっぷりある」と、学校長は付け加えた。
「教えるのは我々教師の仕事。しかし学ぶというのは、それが全てではない。港を出てからたかだか十二時間、初めて見たものばかりだったろう?」
 若人たちはもっと自分を見つめ、そして、もっと貪欲になるべきなのだ――それが学校長からの課題だった。

「では、君たちのご両親の仕事を手伝ってもらおうか。これらの供え物を、神殿内に運び込んでほしい」
 学校長の指示に、各々壺を、瓶を抱えて神前に供える。蝋燭は一本一本燭台に立てられ、花の鉢植えは神殿を取り囲むように並べられた。
 この海に、空に浮かぶ島も、『聖なる日』を迎える準備が整った。
 蝋燭の炎は神の降り立つ目印となり、布は新たな一年を過ごす為の衣装となる。神を迎えもてなす為の十分な食事、そして権力を表す刀剣。
 はるか昔から代々伝えられる、神の為の“技術”。
 今年も新たな技術が供えられた。
「……あら?」
 メーアが、鉢植えの花のつぼみが膨らみ始めたのに気付いた。早回しで見ているかのように、全てのつぼみがほころびる。『聖なる日』に開花するよう調節して育てているはずだ、彼女はそう言うが、その間にも次々と花が開いていく。鉢植えが満開になると同時に、“鳥籠”全体が強風に揺れた。
「こんなこと初めてだわ」
「私もです、どういうことでしょう」
 花を覗き込んだフロラ先生とメーアの会話。「不思議なことが起こりましたねぇ」というベルグ先生方。互いにこの現象について仮説を述べ合う学生たち。
 その声の間に、リベルはもうひとつの声をきいた。

 ――ありがとう。

 初めてきく、しかしどこか懐かしい『声』。
 リベルの横に立ったのはシュレー学校長だった。
「きいたのだな、神の『声』を」
「……ええ」
 音擦れは神の声。草を、梢を揺らして感情を訴える。
「とても喜んでおられるようです」
 大気の渦は“鳥籠”を飲み込み、もう一度全体を揺らす。それから水面まで下り、大きく波を立てる。海面をえぐりながら、白波を残しながら島から遠ざかる。その水飛沫を、海鳥たちは追っていった。
 アインが住む島。学校のある街。リベルの、メーアの実家がある田舎。
 世界に、新たな一年が訪れようとしていた。



 /  目次に戻る  / 

小説トップ/サイトトップ