0.


 寄せて返す波に逆らうように水面が揺れた。
「おっ、きたぞ」
 その声に皆が反応して集合する。
 水面に浮かびあがった黒い影。円形に広がる波紋の中心からは透明な糸がぴんと伸びている。
「今だ!」
 そう叫ぶとヨーチンは一気にリールを巻いた。
 負けじと黒い影が糸を引く。飛沫が飛び散る。水玉のひとつひとつに太陽の光がきらきらと反射する。まぶしいなあ、と目を細めている間に、ヨーチンと影との戦いは決着がついていた。
 水面から高く飛び上がった影は放物線を描いて堤防に落ちる。水面を覗いていた皆が今度はそれに集まった。海から引き上げられたのはトゲのある赤い魚だった。
「ヨーチンがまた釣った!」
 赤い魚は尾ひれで力いっぱい堤防を叩く。しかししょせん魚は魚、海の生き物だ。この堤防の上では、陸の人間であるヨーチンには敵わない。ヨーチンは尾ひれを押さえつけて掴むと高く掲げた。
「今日の晩飯はカサゴの唐揚げだー!」
 ヨーチンの周りに集まったレイもガショーも、そしてリューヤも、すごいすごいと口々に言った。本当にその通りだ。釣りを始めてまだ一時間も経っていないが、ヨーチンが釣り上げた魚はこれで四匹目。隣で釣糸を垂らしていたレイなんか、一回も当たりがないのに。
「なあ、どうしたらそんなに釣れるんだ?」
「どう、って……かかってすぐ引っ張ろうとするのが悪いんじゃねーの?」
 言われてレンが口を尖らせる。
「もたもたしてる間に逃げられたらそっちの方が悔しいじゃん」
「負けず嫌いだねえ。でも釣りは我慢が大事なんだよ。分かるかい、レン君?」
 したり顔で先生のように言うヨーチンがあまりにもおかしくて、リューヤはガショーと二人で腹を抱え大笑いした。いつも学校で先生に怒られてばかりのヨーチンが偉そうにしているだなんて! そんな資格はないのに偉そうにする様は、笑えるほどに不釣り合いで似合わなかった。
 悔しかったのか「次こそ釣ってやる!」とレンが気合いを入れ直し、釣り針に餌をつけ始めた時。女子の弾むような声が聞こえてきた。
「はーい、みんなー、注目注目ー!」
 何事かとそちらを見れば、何てことはない、メーコとナルの二人組である。リューヤたち男四人とメーコたち女二人、いつも遊んでいるメンバーが揃っただけだ。それなのに騒ぎ立てて、メーコのやつ、いったいどうしたというのだろう。そう思って改めて振り向くと、ナルは知らない女子の腕を引いていた。
 可愛い子だった。黒目がちの目はまん丸で大きくて、袖無しのワンピースから出ている腕と脚は細くて長くて、真夏なのに肌が白くて。まっすぐな髪は少しだけ茶色がかっていて、彼女の動きに合わせてさらさらと揺れた。
「どちら様?」
 ガショーが首を傾げ。
「おいおい、その子どこから拉致ってきたんだよ? ナル容疑者?」
 ヨーチンが茶化す。ナルが頬を膨らませる。
「違うよ、うちの宿のお客さんだよ」
「客を拉致しちゃ余計にまずいだろ」
「だーから! 拉致じゃないっつーの!」
 ヨーチンとナルのやり取りが聞こえてきたが、何を言っているのかリューヤにはよく分からなかった。リューヤはただ目の前の女子を見つめていた。
 彼女もリューヤを見返した。目が合う。じっと見ていたくせに、目が合ってしまった途端、妙な気まずさを覚えた。思わず目をそらしてしまい、それからおそるおそる彼女に視線を戻す。その時にはもう、彼女はリューヤを見てはいなかった。
「ほらほら、自己紹介!」
 ナルに促されて彼女はお辞儀をした。
「はじめまして、ソノです。私も小学五年生。よろしくお願いします」
 名乗った彼女の声は学年よりもずっと大人びて聞こえ、可愛らしい笑顔とのコントラストが印象的だった。




   ◆



「――!」
 意識の奥底から表層に引きずり出され、高坂龍夜は一瞬頭が真っ白になった。身体を起こしてこたつから出、意識と現実のずれに身震いする。一呼吸置いてからこたつの上の重箱と正月の特番を流し続けるテレビを確認し、そこでようやく緊張が解けた。
 今日は一月一日。ここは父親の実家、龍夜の祖父母の家。年末年始を過ごす為、龍夜は深空の街に帰ってきたのだ。
 今は伏和に引っ越しているが、ほんの三カ月前までは深空に住んでいた。深空で生まれ、深空で育った。ここが龍夜の街だった。
 だからだろうか。昔の夢を見たのは。
 細かいところは思い出せないが、よく遊んだ仲間の夢を見ていた気がする。懐かしくて温かくて、ほんの少しだけ寂しい夢だった。
「ねえ龍兄、そろそろ時間じゃない?」
 妹の好里に言われてテレビ画面の左上を見れば、確かに待ち合わせの時刻が迫っている。夢の余韻に浸っている場合ではない。空になった雑煮の器と箸を流し台に運び、身仕度を済ませると家を出た。
 吹き付ける風が冷たい。思わず首をすくめる。コートの襟を立てる。
 一月一日。一年の始まり。今年初めて昇った太陽が龍夜の背中を照らした。



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