24.


 ゆったりとした音楽が、突然テンポの速い緊張感溢れる曲に切り替わった。それが余計に龍夜の平常心を失わせる。
「うわ、やばっ」
 無意識に呟いて隣を見れば、余裕たっぷりに好里が見返してくる。憎たらしい。
 視線をテレビ画面に戻して十字キーを操作するが時既に遅し。自陣はブロックで埋め尽くされ、『YOU LOSE』の文字が現れた。対して敵陣では、『YOU WIN』の文字の前でプレイヤーキャラクターが踊っている。実に面白くない。龍夜はコントローラーを放り投げた。
「また負けた……」
「弱いなあ龍兄」
「うっわ、むかつく」
「ふふん」
 こんなゲームに勝っただけで偉そうにしている妹は、やっぱり憎たらしい。
 だいたいパズルゲームというのは苦手なのだ。格闘ゲームなら圧勝なのに。口に出すと酷い言い訳だとか負け惜しみは見苦しいだとか、いったいどこでそんな言葉を覚えてきたのだと言いたくなるような台詞が飛んでくるので言わないが。
 妹に誘われてテレビゲームに興じ、もうすぐ二時間が経つ。そろそろやめなければならない。「あっ逃げるんだ?」「もう一回くらい対戦してあげてもいいんだよ?」などと言いつつも本当はまだ遊び足りないだけの好里をなだめてゲーム機を片付けていると、予想通り、大荷物を抱えた両親が呼びに来た。
「あんたたちいつまでゲームしてるの?」
「もう出掛けるぞ」
「はぁい」
 ゲーム機をテレビ脇の棚に片付け、テレビのリモコンを手に取る。電源を落とす前にチャンネルを切り替えてみる。ちょうど放送されていたバラエティ特番では、最近売れ出した芸人が極寒の海に飛び込んでいた。見ているこっちも寒い気分になる。コートを着込んだ龍夜はテレビを消し、前もって用意しておいたボストンバッグを肩にかけ、玄関に向かった両親と妹の後を追った。
 高坂家は年末年始を父親の田舎で過ごすことになっていた。龍夜の部活の都合もあって何日も滞在する訳にはいかないが、本日大晦日と明日の元日は祖父母の家でゆっくりする予定だ。距離にして百キロメートル以上の移動である。ちょっとした旅行ではあるのだが特別わくわくしないのは、これから向かう先が夏まで住んでいた街、深空だからだろう。
 これは決して旅行ではない。元いた街へ帰るのだ。

 高速道路を利用しておよそ二時間、左に車線変更して一般道に出る。その先はもう深空市だ。インターチェンジ付近の施設はめったに利用することがなかったせいか記憶が薄かったが(祖父が倒れて運び込まれた時の病院がこの近くらしいが見舞いに来たのも数える程度だし、それももう五年も前のことだ、よく覚えていない)、市外に出れば見覚えのある建物が並んでいる。高校や大型スーパー、スポーツ用品店等々、何度もこの前を通ったことがある。
 よく利用した駅。この近くなら目を瞑っていてもその景色を思い出せる。バスロータリーがあって、パチンコ屋があって、流行ってなさそうな居酒屋や本屋が並んでいる。そしてこの先にあったのが、龍夜たちが夏まで住んでいた家だ――目を開けると、かつて家があったその場所には、ただの更地が広がっていた。
 たまにはいつもと違う道を走るか、という父親の気まぐれで車は海沿いの細い道に出た。父親の実家、つまり祖父母の家は、この道をまっすぐ行った先にある。龍夜たちの家があった場所からも決して遠くなく、引っ越す前はよく遊びに来ていたものだ。それを考えると、伏和へ引っ越してからの四カ月間に一度も祖父母と会っていないというのは、何だか不思議な気がした。
 四カ月って長いんだなあとぼんやり考えていた龍夜だったが、好里の「あ、あれ」という声に意識を引き戻された。窓の外に目をやれば、前方の防波堤に釣りをしている人が見える。防波堤にはその釣り人たった一人で、自転車以外には物すらない。こんな冬の寒空の下で釣りだなんてマニアックにも程がある。物好きの顔を見てやろうと目を凝らしていると、好里が「ねえねえ」とつついてきた。
「あの釣りしてる人」
「あー、寒いのによくやるよなあ」
「そうじゃなくて、あの人、魚兄ちゃんじゃない?」
「……え?」
 目をこすり、もう一度見る。
 上下黒のジャージは適正サイズよりも大きいのか、見る人によってはだらしない印象を受ける格好。頭には白いタオルを巻いており、その下からは明るい金髪が覗いている。
 確かに、好里の言う『魚兄ちゃん』その人である。
「ねえ父さん、ここで降ろして」
 後部座席から頼むと、父親はミラー越しにこちらを見た。
「ここで?」
「ここからなら歩いていけるから」
「あんまり遅くなるなよ」
「分かった」
 こんな何もない、海沿いの道端に停車する車なんかほとんどいないのだろう。龍夜が車を降りると、『魚兄ちゃん』は不思議そうにこちらを見て首を傾げていた。しかしこちらを確認すると、驚いたような表情に変わる。龍夜を指差して何か言いたそうに口をぱくぱくとさせていたが、手にしていた竿が大きくしなり、慌てて海面に顔を戻した。
 残念ながら獲物には逃げられてしまったらしい。龍夜は軽くなったリールを巻き取る釣り人に声を掛けた。
「釣れますか?」
「お前が脅かすから逃げられたじゃねーかよ」
「人のせいにするのはよくないなあ」
「けど、まさかお前が来るなんて、予想外過ぎて」
「どうも、久しぶり」
「あー何か調子狂ったわ」
 魚兄ちゃん――古賀島陽介は足元に広げてあった釣り道具を片付け始めた。今日はもうやめにするらしい。邪魔をしてしまったかと申し訳なく思ったが、それとは関係なくそろそろ家の方を手伝わなければならないらしい。
「うち今大掃除の最中だからさ。チビたちが大暴れしてるんじゃねーかな」
「弟いるんだっけ」
「弟弟妹、三人もいると面倒見るの大変だぜ」
「あ、分かる。うち妹一人だけど大変だもん」
 好里が三人いると思うだけで恐ろしい。三人がかりでパズルゲームで襲いかかってくるに違いない。
「……で?」陽介は釣り道具を収めた箱のふたを閉めた。「どうしたの、お前」
 傍らに停めてあった自転車は以前から陽介が乗り回している愛車だった。釣り道具やらクーラーボックスやらをバランスよく荷台に積んでいく陽介を見ながら帰省に至るまでの経緯を簡単に説明すると、理解はしていただけたようだった。
「お前んちじーさんばーさんってこの近くに住んでたんだっけか」
「そう。今日は泊まるんだ」
「じゃあ明日もこっちいるの?」
「そうだよ」
 龍夜の回答を受けた陽介はぱっと笑顔を浮かべた。
「それならさ、お前も初詣一緒に行こうよ、明日の朝。皆と約束してるんだ」
 皆、と聞いた瞬間、龍夜の脳裏に数人の友人たちの顔が思い浮かんだ。
 陽介は具体的に誰だと名前を出さなかったが、誰のことを言いたいのかは分かっている。龍夜たちは小学生の時からの付き合いで……いや、『皆』の中には小学校に上がる前から付き合いがある奴もいる。皆、長い間ずっと一緒だった。龍夜が転校するまでは。
「皆に内緒でさ、テレビのドッキリみたいに、スペシャルゲストみたいに来いよ」
「いいねそれ」
「よーし、じゃあ決まりだな!」
 陽介の話しぶりは、龍夜の知っているそれと何ら変わりなかった。その事実にほっとしている自分に気づき、あれ? と首を傾げたのも一瞬。待ち合わせ場所と時間をまくし立てる陽介を慌てて止め、一から確認し直す。必要な情報を頭に叩き込み、何かあったら陽介の自宅に電話をかける、ということで話はまとまった。
「じゃあ、よいお年を」
「おう、また明日な」
 自転車で走り去る陽介を見送り、龍夜も帰路につく。
 冬の海風は冷たい。龍夜はコートの襟を、緩む口元まで引き上げた。

 また明日。


『Air 中学二年生二学期編』 完





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