緑色の記憶


 デスクに貼ってある付箋を見る。何度も貼って剥がしたのか粘着力が落ちて皺が寄っている、青い付箋だ。私はデスクの引き出しを開け、新しい付箋を取り出すと、それに全く同じこと――『緑色のノート』と書き写した。
 古い付箋を丸めてごみ箱に放り投げ、新しく書き直した付箋をデスクに貼る。そうしてようやく、私は付箋の指示通りにデスクの左隅に置かれた緑色の表紙のノートを開いた。
 ノートには昨日の私が書き残した『すべきこと』一覧があった。06517学生の論文チェック、03042緑人成長経過記録、00002自机の掃除、24870夕方来客応対、等々。私は自机の左側に置かれた装置の前に立って装置から伸びるケーブルを手に取ると、伸ばしっぱなしの髪を掻き分け耳の後ろのジャックに差した。
 装置上部のテンキーで06517と入力する。テンキーの隣の液晶画面にも06517と表示される。それを確認して、私は実行ボタンを押した。
 装置の中で保存されていた記憶の電子データが、ケーブルを通して私の頭に流れ込む。脳のシナプス細胞を駆け巡った電子データは脳内で輪状の回路をつくり、本当の記憶として再生される。
 昨日の会話が鮮明によみがえる――そうだ、私は昨日の昼、博士課程の学生から論文の添削を頼まれていたのだ。その学生は「朝一番に提出しに行きます」とも言っていた。やる気溢れる学生に負けぬよう、こちらも気合いを入れて添削せねばならない。耳の後ろに差したコードを引き抜くと、私は学生の論文のテーマに関連のある文献を部屋中から探し出し、デスクに積んだ。
 件の学生はすぐにやってきた。もとより時間には正確な学生だったが、今日は宣言していた時間ぴったりに、やや緊張した面もちで私の部屋を訪れてきた。「研究生活に何か不安や不満はないか」と尋ねると、彼女は「特にありません」と答えた。優等な答えを返す、模範的な学生だった。
 学生が部屋を出てから、私は改めて論文に目を落とした。「まだ実験結果をまとめきれていないところも多いのですが」などと彼女は言っていたが、この段階で優に百枚はある。結果を整理して写真を貼っていけば、論文が完成する頃には倍の枚数になるだろう。そうなった時に大変になるのは、これを添削する私自身だ。チェックが行き届かず論理が破綻した論文をつくりあげてしまう、なんてことがあってはならない。枚数の少ない今の内からつぶさに検証しておかなければ。参考文献片手に、私は彼女の論文をめくり始めた。
 論文が研究背景を語り終えて本題に差し掛かった頃だった。私は手を止めて顔を上げた。紙をめくる音だけが漂う静かな部屋で、電話がけたたましく鳴ったのである。
 受話器を手に取ると、聞き覚えのある男の声がした。
『やあ元気かね、忙しいかい?』
 親しげに話す相手が記憶と結びつかず、思わず「ええと」と唸る。それが向こうにも聞こえてしまったのか、相手は『覚えていないのかい?』と驚いたように言った。しかし気を悪くした様子はなく、むしろ『仕方ないなあ』と面白そうに笑うと『24870だよ』と五桁の数字を伝えてきた。
 私は男の声に従い、デスク横の箱から伸びるコードを耳の後ろに差すと、24870と入力した。
 蘇ってきたのは四日前の記憶。電話の男の顔も名前も、彼が何者であるかも思い出した。
「ああ、君のことまで忘れてしまうなんて、本当にすまない。君は私を助けてくれてたというのに、そんな君のことを忘れるなんて」
 嘆く私を、彼はやはり笑った。
 彼の用件は、『夕方訪ねる予定だったが早めに着きそうだ、約束よりも早く訪ねてもいいかい?』ということだった。私はもちろん構わないと伝えた。今日は学生相手の講義も教授会議もなく、先の学生の論文を添削し、あとはいつも通り研究に取り組むだけだ。来客時刻が早まったところで、何の問題もなかった。
 電話を切り、改めて彼の情報を思い出す。大学に入学する前からの付き合いだから、思えばもう二十年以上の付き合いだ。私たちは気があった。実験の結果が思うように出なければなぜそうなったか夜遅くまで話し合い、外国で新しい論文が発表されればそれがどのように社会で活きるか語り合った。実験室の動物を逃がした時には協力して捕獲し、研究用の植物を効率よく手入れする方法について議論した。休みの日には共に街へ出て女に声をかけ、酒を呑んだ。長いこと同じ時を過ごした。
 しかし、私には欠陥があった。私はたくさんのことを覚えられなかったのだ。どうも、脳に障害があるらしい。頭に怪我を負ったことが原因らしいが、その時のことはよく覚えていない。いつ怪我を負ったのか、なぜ怪我を負ったのかを思い出せない。
 とにかく大事なのは、私が欠陥品であるということだ。私は彼と過ごした時のことを、徐々に忘れていった。確かに形を成していたはずの私の過去の記憶が、氷が融けるように消えていった。シナプスの輪状回路が壊れ、記憶が脳からこぼれ落ちてしまったのであった。
 しかし彼は、欠陥品の私を見捨てなかった。大学での研究テーマが記憶を司るシナプス細胞だった彼は、私の記憶をデータとして復元し、保存してくれたのだ。記憶はデータベースに記録され、私の首にはジャックが埋められた。コードでデータベース装置と私を繋ぐことで、私は記憶機能を取り戻すことが出来たのである。
 データベース装置を指の腹でそっとなぞる。唯一無二の親友は、私に半永久的な記憶力を与えてくれた。そのおかげで今も研究を続けることが出来ているし、この研究が認められれば教授の肩書きも絵に描いた餅ではなくなる。感謝してもし尽くせない。しかし私には礼を言うことしか出来ない。だから顔を合わせる度に例の言葉を述べているのだが、彼は決まって「気にするな」と言うのであった。
 それは今日も例外ではなかった。訪ねてきた彼を部屋に迎え入れ、私の研究が順調であることとそれは彼が私の記憶力を取り戻してくれたおかげであることを伝えたのだが、彼はやはり首を横に振った。私の記憶復元も彼が続けている研究の一環なのだから、逆に礼がしたいとまで言われてしまった。
 彼はいつもと同じように、データベースを自前のノート型コンピュータに接続して、私の記憶のメンテナンスを行った。コードで繋ぐ度に装置と私の脳は同期し、データベースを自動で更新している。その際異常が発生していないかどうかを確認し、不具合があればそれを調整してもらっているのだ。
 データベースは彼の管理下にある、言い換えれば、私の記憶は完全に彼に委ねられているということだ。何かの手違いで保存されていた記憶が飛んでしまえば私のこれまでの時間が全て白紙になる。しかし私は彼を信頼していた。唯一無二の親友で、恩人なのだ。彼こそ私の記憶を預けるに相応しい人物だとも思っていた。
 休みなくキーボードを叩いていた彼が手を止め、ノート型コンピュータの蓋を閉じた。メンテナンスが終わった合図だ。彼はこちらに身を乗り出すと、「君の研究の成果を見てみたい」と言った。もちろん私は首を縦に振った。
 私が取り組んでいる研究は――研究が順調であることは確かなのだが、研究のキーワードすら頭に浮かばない。実に不便で欠陥だらけの脳だ。自身の有り様に悲しくなりながらも、それを顔には出さないように努め、私は机の付箋に目を向けた。
 付箋の言う通り、緑色の表紙のノートをめくる。ノートの一ページ目には、《研究テーマ:新人類緑人》と書かれている。ああそうだ、これが私の研究テーマなのだ。そして今度は今日やるべきことのリストから緑人という言葉を見つけ出し、データベース装置と私の耳の後ろをコードで繋ぎ、ノートに書き込まれた03042という五桁の数字を装置に入力した。
 研究を始めた当時のこと――あの時はまだ大学生だった――から、最初に新たな生命を生んだ時のこと――まだ人類とは程遠かったが――から、昨日行った作業から、研究に関する全てのことが脳に流れ込んできた。流入した情報が私の中で形となり、私の身体を突き動かす。私は彼を連れて地下室へと向かった。
 私の携わるプロジェクトは、たったひとつの細胞から始まった。マウスの遺伝子に葉緑体の遺伝子を挿入することで、葉緑体を含有したマウス皮膚細胞の作成に成功したのだ。この細胞は葉緑素をもつ為に緑色であることから、作成された皮膚はグリーンスキンと呼ばれた。
 研究はここから更に発展した。生きたマウスへのグリーンスキンの移植、発生の段階から葉緑体をもったマウス、研究が成功する度に世間の話題となってきた。
そして今、時代は遂に新人類の研究に突入した。生まれながらにして葉緑体を有し、緑色の肌をもつ新人類――緑人が、私の研究で誕生したのだ。
 地下の第一実験室では、一人の学生がケージの中の緑人と言葉を交わしていた。学生は私の姿を見ると軽く会釈し、「論文は見ていただけましたか?」と尋ねてきた。論文? はて、何のことだろう。首を傾げると彼女は慌てたように口に手を当てた。私はまたしても何かを忘れてしまったらしい。額に手を当てる私の代わりに、親友が「今添削中だよ」と返していた。
 親友からの回答を聞いた学生は頷いて話題を変えた。緑人の言語認識や記憶の機能に目立った障害はなく、昨日や一昨日の出来事について話すことが出来ると私に報告した。新人類は私よりも記憶機能に優れているらしい。何とも皮肉な話だ。
 第一実験室の緑人が誕生して二年。緑人の見た目はすっかり大人だ。葉緑体を挿入することで細胞分裂のサイクルが著しく早まったらしい。このせいで新人類の寿命が我々旧人類よりも縮まってしまうのであれば、それは大きな問題である。緑人の老化速度の確認と、本当に老化が早まっているのであればその防止対策が今後の課題だ。簡単な説明ではあるが、彼は適切に相槌を打ちながら聞いてくれた。
 私たちは第二実験室に移動した。第二実験室にも緑人を入れたケージがある。第一実験室と異なるのは、部屋のライトが太陽光に近い白色光ではなく、赤色光であるという点だ。
「先程の個体よりも幼いね」
 ケージを覗いた彼はそう呟いた。その通りだ、赤色光の下で育った緑人は成長が遅いのだ。
 葉緑体が光をエネルギーに変換することは周知の事実である。しかし植物の光合成に本当に使われているのは、様々な波長の光の中でも赤と青のみなのだ。更に、赤色光には植物の成長を抑制するはたらきがある。私は比較実験の為に、第一実験室の緑人と同時期に誕生した別の緑人を、第二実験室で育てていた。比較実験は成功しており、第二実験室の緑人の外見は十歳程度と、第一実験室の個体の二分の一の早さで成長している。現在問題となっている老化速度に関する研究の糸口がここにあるのではないかと、私は期待していた。
「緑人と話をすることは出来るかい?」
「出来るとも」
 応えたはいいが、第二実験室の個体はこれまで言葉を発したことがない。試しに幼い緑人に声を掛けてみたが、うんともすんとも言わない。赤い光に照らされ浅黒く見える肌の中で、瞳だけが爛々と輝いている。
 幼い緑人との会話は難しそうだ。私たちは第一実験室に戻り、緑人のケージの前に立った。
「こんにちは」
 彼が声をかけると、緑人は葉緑素に染まった目で彼を見返し、そしてすぐに目を反らした。緑人は「あなたの顔なんて見たくない」と唸った。
「なんてことを言うんだ!」
 私は声を荒げたが、そんな私を彼は止めた。嫌われてしまったのは仕方がない、そろそろ帰るよ――彼は私の制止を振り払い、実験室を出ていった。
 私は緑人に向き直り、なぜあんなことを言ったのかと問い質した。しかし緑人は悲しい顔をして首を横に振った。
「わたしはまだ植物だった頃を覚えているのよ」
 緑人の葉緑体の遺伝子は、私が学生の頃から実験室で育ててきた薬草から抽出したものだ。まだ薬草だった頃から、緑人は毎日のように実験室を、私たちを眺めてきた。だから緑人は、私が失ってしまった私の学生時代を知っているのだと言う。
 まさか、そんなことがあるのか――呆然とする私に、緑人は更に信じられないことを口にした。
「忘れたの? あなたの脳を破壊したのは、あの男じゃない」
 私は動悸が早まるのを感じた。そんなはずない、この緑人は何を言い出すのだ、彼は私の恩人だ、ふざけるんじゃない――緑人を否定する言葉がいくつも浮かんだが、次第に酷くなる頭痛と動悸がそれを掻き消した。
 私は耐えられずに膝をついた。意識が、記憶が混濁する。どろりと融けて混ざり合う脳の中で、唯一はっきりしているのが彼の存在。
 意識の中の彼に私は尋ねた。
「私が記憶を失ったのは君のせいなのか?」
 すると彼はいつもの笑顔で言った。

 ――すまないな。

 そうして彼は、私の首元にデータベース装置から伸びるコードを突きつけたのであった。



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