日常の中の非日常


 青い四足の獣が牙をむいて唸っている。前足に力が入ったのが、遠目に見ても分かる。獣の全身の筋肉がしなった。ばねが縮み、反発で勢いよく伸びる。もう獣は目前。
「魔術師!」
「ええ!」
 飛んできた火の矢が獣に突き刺さった。雄叫びを上げながら獣が泡となって消える。燃え盛る弓矢を掲げ、魔術師はガッツポーズした。
「よし!」
「気をつけて、魔術師も、勇者も。次が来る」
「ああ」
 僧侶が指差す方を見ると、もう二匹の獣が全身を震わせていた。唸り声が響く。牙が鈍く光る。地面を蹴る。
 勇者は剣を構えた。
「皆、いくぞ!」
 足を一歩踏み出した瞬間、ベルの音が響き始めた。森からか空からか分からない。至るところで音が反射し、勇者たちの耳に届く。
 獣たちは地面に伏せ、耳を伏せて音を聞かないようにしていたようだが、それも無駄な抵抗だったようで、泡となって霧散した。
 獣たちだけではなかった。
「うっ!」
「あああっ!」
 振り向けば、魔術師が、僧侶が、足先から泡になり始めている。
「ど、どうして二人が……!」
「勇者……逃げて!」
「そんな!」

「魔術師! 僧侶!」
 布団を蹴った。目覚まし時計のベルも止める。
「……酷い夢だった」
 まさか、ゲームの世界以外で自分が勇者になるとは思わなかった。ありえない、いくら夢でもありえない。はは、おかしな話だ。
 そこでようやく、先ほどベルを止めた時計を見た。
 パジャマを脱ぎ捨て、スラックスをはき、Yシャツのボタンを留める。掛け違えた。いいやこれは後で直す。学生服とトートバッグを引っ掴んで、自室のドアを蹴破らん勢いで開ける。階段を飛び下りて、一階台所に転がり込んだ。
「お、起きたな弟よ。おはよう」
 新聞を読みながら兄はコーヒーを飲んでいた。こちらをちらりとも見ないこと、そしてその優雅さにいらっとする。
「ねぇ起こしてって言ったじゃん!」
「聞いてないよ」
「言った!」
「聞いてないって」
 共働きの両親は、今日は早番だとかで既に出社したらしい。兄の話を聞き流しながら顔を洗い、母親が用意しておいてくれた朝食を胃に詰める。せっかく作ってくれたのに申し訳ないけれど、味わっている場合ではない。
「行ってきます!」
「おう、支度速いな。気をつけろよ」
 言いながら玄関先までついてきた兄。わたわたと自転車の鍵を外していると、言われた。
「Yシャツのボタン、みっともないからな」

 家を出て正面の通りを道なりに。大通りにぶつかったら左折。自転車を飛ばす、信号以外では止まらない。緩やかな坂道は立ちこぎ。
 坂を上りきったところで友人が待っていた。
「お、おはよ……」
「おお、息切れが酷いな」
「寝坊、した……待たせちゃ、悪いし」
「メールかなんかで連絡くれたら先に行ったのに」
「そうすると、悪い気もなくなって、気が緩んで、俺が遅刻する」
「……そうかい」
 息を整えつつボタンを掛け直し、今度はゆっくりと自転車をこぎ始めた。
 ガードレールの向こうでは自動車がぶんぶん飛ばしている。それに合わせて路面バスもスピードを上げる。どこ行きなのかは見えなかったが、自分と同じ高校の制服が窓の内側に見えたので、多分高校行きだろう。
 友人に今朝見た夢の話をすると、「お前が勇者とかねーよ!」と大笑いされた。自分でも、自分が勇者だなんておかし過ぎる話だとは思う。しかし、自己評価ならともかく人からもそう笑われると、少しだけ傷ついた。笑い話のつもりで話したくせに、だ。
「まぁとにかく、そのせいで寝坊したんだ」
「どうせ寝たのが遅かったんだろ?」
「それもある」
「早起き出来ないのに勇者っておかしいよ」
「まだ言うか」
「あれ? そういやお前の兄貴まだ家にいんの?」
「うん、うちから大学通ってるから」
 中身のない会話を続ける内に学校が見えてきた。あいさつ運動とかで、校門前に生徒会役員がずらりと並んでいる。役員をやっている友人に声をかけ、自分たちは自転車を押し駐輪場へ。並べてとめて、教室へ向かった。
「おはよー」
「お、来たなお二人さん。宿題やった?」
「当然だろ!」
 席も隣同士、仲良く揃って着席する。
「聞いてくれよ、こいつのあだな今日から『勇者』な」
「やめてくれよ」
 さっそくついさっきしたばかりの話を脚色しながらクラスメイトたちに話す友人。学校でも勇者フラグが立ってしまったではないか。
 担任が教室に来るまで、友人らと話しながら学生服を整えたり課題を確認したり課題の答えを見せ合ったりして過ごす。
 変な夢を見て遅刻しかけたが、この時間はいつもと何も変わらない。昨日とも一昨日とも大きく異なることはない日常。くだらないことをだらだらと話しくだらないことに笑う時間に一石を投じてくれたのは。
「勇者君、おはよう」
 同じクラスの女子生徒だった。
「何だよ、お前まで。俺が勇者だったのは夢の中での話で」
「ふふ、その『夢』でのこと、覚えていてくれて嬉しいよ」
「――まじゅつ、し?」

 日常の中の、非日常。



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