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「また明日」
『助けてくれコースケ!』
そんな電話がかかってきたのは八月三十日の夜。歯を磨いてトイレに行って、もう寝るばかりと眠い目をこすっていた時だった。
時計の針はもう二十二時を示そうとしている。こんな時間に電話とは。
「どうしたの? ケン」
電話機と受話器をつなぐくるくるの線を指先でもてあそびながら、康介は何とかあくびを噛み殺した。最近買い換えたばかりの電話機にくっついている液晶画面には、電話の相手、健一の家の番号が表示されている。意味もなくその番号を頭の中で復唱しつつ舟を漕ぎかけていた康介だったが、受話器が吐き出す次の言葉に意識を引き戻された。
『自由研究が終わらねーんだ!』
へえそうか、大変だな、もう八月の三十日なのに。自由研究が終わらないなんて。
……自由研究だって?
「何で!? 何でまだ終わってないの!?」
眠気が一気に吹き飛んだ。頭が真っ白になった。雷にでも打たれた気分だ。風呂で綺麗に流したというのに、変な汗まで出てきた。
『このくらい何とかなるって思うじゃん?』
「え? え? 何言ってんの?」
『でもどうにもならなかったんだよ!』
「本当に何言ってんの?」
『ヤバイよ、チョーヤバイよ!』
会話にならない。健一が何を言っているのかいまいち分からないし、はたらかない頭ではどうしたらいいか全く思いつかない。
ただひとつ分かるのは、チョーヤバイ、ということだ。
「と、とにかく、ぼく明日の朝イチでケンの家まで行くから!」
そう伝えると健一は『わ、分かった』と頷いた。やっと落ち着いてくれたらしい、受話器を置く音が聞こえて電話が切れた。ちょうど居間の振り子時計が十回鳴った。
はっと気がついた。康介は布団に大の字になっていた。東向きの窓からは太陽の光が差し込んでいて、部屋の気温を上げ始めている。夏ももう終わりだというのに日差しは突き刺さるようだし、蝉はしつこく鳴いていた。
少しずつ昨夜のことを思い出す。記憶の輪郭がはっきりしてくる。健一との会話、その内容が耳の奥に蘇る。
「自由研究!」
腹にかけたタオルケットを蹴り飛ばして康介は跳ね起きた。ぼんやりしている場合ではなかった。
この夏休みの自由研究のテーマとして、健一が選んだのは星の観察だった。夜空に見えた大小さまざまな星を記録し、大きなものについては神話などのエピソードまで調べようと考えたのだ。
これが健一だけの研究なら、八月の最後の今になって康介が慌てる必要などない。問題なのは、この研究の発案者が康介で、しかも二人の共同研究であるということだった。
観察の方法や見た星の名前などを画用紙にかいてまとめていこうと話し合ったのがちょうど一カ月前のこと。各々かいたそれを八月三十一日に合わせて綴じて、一冊の本の形にまとめる約束だった――はずなのに、まさかぎりぎりの今になってもまだ終わっていないとは。康介は急いで朝食を済ませると、自分が作ったページや調べて用意した資料など思い付く限りを抱えて健一の家へ走った。
「待ってたよ!」
健一は居間のテーブルに向かって頭を抱えていた。床にはランドセルが転がっていて、理科の教科書やノートが広げられている。並べられた画用紙はほとんどが白いままだった。
健一のお母さんが出してくれた冷たいオレンジジュースを受け取って、お礼もそこそこに飲み干す。引かない汗をシャツの裾で拭い、康介は自由研究の目次のページを引っ張り出した。
「何が終わってないの?」
「感想と、あと調べ学習がまだ……でも結果と表紙なら作ったんだぜ、ほら!」
見て見てと健一が真っ白な画用紙をのけると、文字や絵がかき込まれた画用紙が顔を出した。観察当日に使った記録用紙が貼り付けてあり、補足情報が書き足されている。天体や星座を見た時間と見えた方角、主な星の名前が簡単にまとめられていた。
更にその下から現れたのは水色の画用紙。タイトル『星の観察』、名前『五年三組 松崎康介 月島健一』の他、天体望遠鏡で星を見る二人の人間の絵が並んでいた。康介と健一らしい、結構似ている。
「へえ、すごいいい感じじゃん!」
「だろ?」
だけど……康介は腕を組んで唸る。例えひとつひとつの完成度が高くても欠けているページがあっては、それは未完成の自由研究だ。夏休み明け初日である明日、宿題の提出日までに、完成形へともっていく必要があるのだ。
研究の感想は健一に何とか書いてもらうとして、問題は調べ学習のページだった。康介が用意した資料は観察の方法に関した資料ばかりだから、天体のことについてはあまり触れられていない。かといって今から資料を探している時間はほとんどない。
誰か宇宙に詳しい人に教えてもらえるのなら、あるいは。
……。
「ケン、電話借りるね」
「いいけど、どうすんの?」
「助っ人を呼ぶんだよ」
誰? それ? きょとんとする健一を尻目に康介は立ち上がった。何度も遊びに来ている健一の家だ、電話の場所も、クラスの連絡網がしまってある場所も知っている。連絡網から目的の番号を見つけて受話器を手に取る。最初のゼロを押す時、康介の指は変に震えていた。
助っ人が到着したのは、電話からちょうど十分経った頃だった。
「こんにちは」
「お邪魔しまーす」
玄関の方からその声が聞こえてきた途端、康介は急に落ち着きがなくなった。自分で呼んだくせに、と頭では思うのだけれど、心は頭より正直だ。
「なあ、助っ人って……」
「そうだよ」
健一の耳打ちに康介が頷く。そわそわする康介に、健一はにやにや顔を向ける。
「助っ人とか言っちゃってー、本当は呼びたかっただけだろ?」
「ち、違うよ!」
「またまたー隠さなくていいって」
「そんなんじゃないんだってば、本当に!」
ぶんぶんと首を横に振ってみるが、健一はちょっかいをやめない。壊れた音楽プレイヤーのように「ねえ、デートした?」「違うって!」と繰り返す。
「もう、ケンってば!」
一段と大きな声を出してしまってから扉の向こうに足音を聞き、康介は口を閉じた。
居間の扉が開き、女の子が二人姿を見せた。
学年で一番勉強が得意な鴇田朋。それから、星や宇宙が好きな花江千夜子。二人とも康介たちのクラスメイトで、この夏に仲良くなった友だちだ。二人の知識をもってすれば、調べ学習のページもすぐに埋まるに違いない。
本当は彼女たちにこんな格好悪いところを見せたくなかったし、自由研究を人に頼るのもどうかと思う。しかしこんなお願いをするのに彼女たち以上の適任者を知らなかったし、これ以上の手段は思いつかなかった。
「突然電話があったと思ったら、何? まだ宿題が終わってないの?」
さっそく朋の言葉が辛辣だ。その通り過ぎて何も言い返せない。
代わりに康介は手を合わせて頭を下げた。
「ちょっと、ちょっとだけでいいんだ。知ってることを教えてもらえないかな」
目だけ上げて窺うと、朋は溜め息混じりに「しょうがないなあ」と肩を上下させた。千夜子が「そういうのいいよお、松崎くん」と顔の前で手を振った。
「困った時はお互い様だよ」黒目がちな目を細めて「協力するから、すっごい自由研究作っちゃお」
ね? と笑う千夜子が可愛くて、こんな時だというのに口元がだらしなく緩んだ。慌てて引き締めたから、きっと今康介はすごい顔になっているだろう。何とか普通らしい顔をつくろって健一を見ると、すごくほっとした顔をしていた。よかった。康介も胸を撫で下ろし。
「ありがとう!」
「よろしくお願いします!」
二人で揃って頭を下げた。
朋と千夜子の協力で、真っ白だった画用紙はあっという間に書き込みで埋まっていった。いて座の近くに星団が見えたでしょ? あれM8っていうんだけど――ケンタウロスが弓を引く姿がいて座になっていて――木星の直径は地球の十一倍なんだよ――次から次へと出てくる千夜子の知識のおかげで、康介の手は止まることがなかった。加えて、どうまとめたら分かりやすく見やすいか、朋から指摘が入る。康介ならただだらだらと文章を書くところを、朋のアドバイスで絵に変更し、色をつけていく。どんどん完成に近づいていくページを口を開けて見ている健一を時折小突いて、早く感想を書き上げるよう促した。
朝から始めた作業は終始この調子で進み、昼過ぎには終わりが見えた。鉛筆で書いた下書きを油性マーカーでなぞる手を止め、康介は健一のお母さんが茹でてくれたそうめんに手をつけた。ちょっと遅い昼ご飯だ。
「いや~終わりそうでよかった」
早くも終わった気になったのか、健一は大きく伸びをした。
「まだ終わってないでしょ」
「でも終わったも同然だよ」
「油断するには早いよ。例えば……ほら、それ」
朋が指を差したのは健一の手元、麦茶の入ったコップ。肘が触れ、液面が揺れる。
「あっぶねえ、こぼすとこだった!」
「こぼしたら書き直しになるじゃない。気をつけて」
「お、おお……」
確かに。書き直しなんて冗談じゃない。急いでそうめんを啜って食器を片づけ、再びペンを握った。康介がペンを走らせ、健一が鉛筆の跡を消した。
ペンが最後の『。』を丁寧になぞり、消しゴムが最後の行をこすった。消しカスを綺麗に払い落として、康介が担当したページに重ね合わせていく。研究の動機、研究の進め方、結果、調べ学習、康介と健一の感想、表紙……それまでばらばらだったページにつながりが生まれる。単体では意味を成さなかったページがひとつの流れを作り上げた。
高鳴る鼓動を抑えて全ての画用紙を束ねる。紐を通し、結ぶ。
ぎゅっと締め上げて、ここに一冊の、夏の星空の本が完成した。
「やったぁ!」
遂に終わった。両手を上げて大の字に転がった。全身だるい、身体が重くなった気分だ。でもそれは決して不快ではなく、むしろ少しだけ心地いいと感じた。
目の前にコップが差し出された。コップから手を辿り、顔を見る。目を合わせる。
「花江さん」
「お疲れ様」
「あ、ありがとう」
身体を起こし、覗き込む目から視線を逸らせないままコップを受け取る。指先が触れ、そこだけがかっと熱くなる。千夜子に気づかれただろうか。どきどきしながら目を逸らす。麦茶を煽る。麦茶の中で氷がカランと音を立てた。
夏休みはどこに行っただとか、何をして遊んだだとか、そんな話をする内に太陽が西に傾き始めた。今日が終わろうとしている。それは同時に、夏休みが終わろうとしていることを意味していた。
「夏休みももう終わりだなあ」
健一の呟きに朋が「そうだね」と頷く。
「あっという間だったなあ」
「いっぱい遊んだもんね」
「明日からはまた学校か」
毎日早起きはつらいなあ。康介が溜め息をつく前に。
「そしたら、毎日会えるね」
千夜子が笑った。
「毎日学校行って、宿題とか勉強とか大変だけど、でも学校に行けばみんなに会えるから。それは、とっても楽しいことじゃない?」
毎日が楽しい、と。そう言う千夜子が眩しくて呆けてしまう。
彼女の笑顔が見られるのなら、早起きくらいたいしたことじゃないような気がした。
台所の方からいい匂いがしてきた。健一のお母さんが晩ご飯を作り始めたらしい。康介の家でもきっと、支度が始まっているだろう。
「そろそろ帰るね」
腰を浮かせた康介に続き、千夜子も朋も立ち上がった。
「ケン、せっかく作ったんだから、明日自由研究忘れないでね」
「もちろん! もうランドセル入れた」
「じゃあランドセルを忘れないように」
「そんなん忘れる訳ねーだろ」
朋が呆れたように「また、あんたたちは」と笑う。「月島くん、忘れないよね? 大丈夫だよね?」と千夜子が念をおす。
明日からは、この軽口は教室で言い合うようになる。夏休みに入る前がそうだったように。
明日からまた、日常が戻ってくる。