第二学年後半戦開始15話の舞台裏


 バスケットボールが床を弾む低い音、シューズの底が床と擦れる高い音が、体育館の壁と高い天井で反響する。開け放たれた窓から窓へと吹き抜ける風が、額を濡らす汗を冷やしていく。ステージの右上、体育館放送室がある辺りに設置された壁時計を見上げた寛司は、嵐からパスされたボールをそのまま抱え込んで「タイムタイム!」と右手を上げた。
「どうした双馬」
 壁際で指示を出していた顧問の柳井が首から下げていたホイッスルを短く吹くとコート内にいた部員たちの動きが止まった。皆が寛司の周りに集まろうとしたがそれを手で制する。
「すんません、ちょっとトイレへ」
「何だそんなことか、早く行ってこい」
「はい。代わりに、お前、よろしく」
 柳井に頭を下げ、台詞の後半は一番近くにいた後輩に向ける。ボールをその後輩に渡してジャージの上着を羽織ると、寛司は足早にコートから立ち去った。
 体育館を後にした寛司が向かったのはトイレではなく、西校舎と北校舎の隙間にある外階段だった。途中、生徒会の活動中なのか、生徒会長たちと廊下を歩く透とすれ違った。「どうしたの? 寛ちゃん」と声を掛けてきた透を笑顔ではぐらかし、まっすぐ外階段を目指した。
 錆びついて独特の匂いを放つ階段を最上階まで一気に駆け上る。上り切ってすぐの教室、視聴覚室の扉をノックした。
 中から顔を出したのは演劇部部長、梅枝愛だった。衣装制作の最中だったようで、長い髪を後ろでひとつにまとめ、絵本に出てきそうな王子の衣装を身につけている。右肩にはしっかりと縫い付けられている金のリボンが、左肩ではだらんとぶら下がっていた。
「朝間留衣呼んでくれない?」
「うん、ちょっと待ってね」
 寛司ににっこりと笑いかけると愛はすぐにドアの向こうに引っ込んだ。同級生、まだ十四歳なのに、可愛いというよりは綺麗という言葉が似合う笑顔だった。演劇なんかやっていて、将来は女優でも目指すつもりなんだろうか。しかし綺麗な子だよなあ。ぼんやり考えていると、再び中から人が顔を出した。目が合ったその顔は今度は愛ではなく、留衣のものであった。
「どうしたの寛ちゃん、だらしない顔して」
「何『だらしない』って」
「ううん、こっちの話」
「ああそう」
 自分のだらしない顔が自分で想像出来なかったが、今はそれについて言及している余裕がない。「今忙しい?」と要件を切り出すと「忙しくないよ」と返ってきた。
「ちょっと図書室行ってみようよ」
「あ、高坂君今日だっけ、当番」
「賑やかしてやろうぜ」
「いいねいいね」
 寛司と連れ立って出て行こうとする留衣に気付いた愛が「朝間君どこ行くのー?」と呼び止める。「ちょっと休憩ー」と適当なことを言い、二人は図書室へ向かった。道中、学校指定ジャージを着ている留衣に「今日はドレスじゃないの?」と尋ねると、「当たり前でしょ!」と怒られてしまった。
 寛司たちが図書室の面した廊下に出たのと、図書室から女子生徒が出てきたのは、ほぼ同時だった。その生徒は寛司のよく知っている人で。
「あれ、星魚?」
 名前を呼ぶと、笑っているような、困っているような、それとも悲しんでいるような、何とも言えない表情でこちらを見返してきた。
「お前どうしたの」
「どうした、って」
「当番だよ、図書当番」
「あ、ああ、うん」
 幼馴染同士の二人だけの空気を何となく察したのか、留衣は寛司に一言断りを入れると先に図書室へと入っていった。引き戸がスライドして開き、逆方向にスライドして閉まる。壁の向こうから留衣の声が聞こえたがはっきりとせず、内容までは聞き取れなかった。
 窓から中庭を見下ろすと剣道部が素振りをしているのが見えた。その中には理花もいる。こちらに気付いたようで手を振っている。星魚も振り返してから顔を引っ込め、寛司に背中を向けて2Eの教室の方向へ歩き出した。
「おい星魚」
 図書室の閉室時刻まではまだ時間があるというのに、どこへ行く気だ。肩を掴むと、こちらを見ることなく、言った。
「後は高坂君がやっといてくれるって言うから……だから、部活行く」
「何だそりゃ」
「新人戦近いから、後輩たちの練習付き合ってあげなきゃね」
 図書室からはテニスコートがよく見える。軟式テニス部の星魚としては、図書室なんかにいれば、すぐ近くで練習している部員たちの様子が気になるのだろう。それを気遣って龍夜がそういう言い方をするのも、寛司には何となく分かる。分かるが。
「それで? おとなしく出てきちゃったの?」
 星魚の行動の方はよく分からない。
「だって、せっかく好意で言ってくれたんだもん」
「じゃあお前の気持ちはどうすんの」
「……何のこと?」
「さあねえ」
 くるりとこちらを向いたかと思うと、星魚の右手の指が寛司の鼻をつまんだ。そこに手加減なんていうものは存在せず、ぎりぎりと鼻の頭を締め上げる。
「痛い! 痛いですって!」
 降参とばかりに両手を上げると、案外あっさりと解放された。あまりの痛さに、もしかしたら少し鼻が高くなったのではないだろうかという錯覚すら覚える。しかし触って確かめてみても特に変化があったようには思えず、ただ痛くなっただけだった。
「何すんだよ、ったく」
「寛ちゃんこそ部活放り出して何してんの、人のこと言えないじゃん」
「俺はトイレ休憩中」
「ここトイレじゃないんだけど」
 とにかく部活行くから、と寛司に手を振る星魚はいつも通りで、先ほどあんな表情を見せたことが嘘のようだった。
「相変わらず素直じゃねーな」
 星魚が素直じゃないことは、何も悪くない。それを誰も責めることは出来ないし、誰を責めることも出来ない。
 しかし寛司は、今のこの空気に、関係に、納得出来ずにいた。
 それと同時に、自分が口を挟める隙間などないことも承知していた。
「何だかなあ」
 悔しいのか、悲しいのか、それともまったく何も感じていないのか、よく分からないこの感情を振り払うかのように廊下を走る。全てを払い落とすかのように上履きの底を床に叩きつける。寛司の足音が狭い廊下をはね返る。
 そうして、力任せに、図書室を戸を引いたのである。
「よぉ龍夜! 働いてるか?」



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