新春の雑音 『依然先頭を走り続ける松ノ宮大学の真木、遂に九区まで残り三キロメートルのところまでやってまいりました!』  床に広げられた青いビニルシートの上で、ラジオがノイズ混じりにそう叫んだ。正面で柔軟体操をしている羽浦の顔を覗き見れば、しかし表情を変えることなく、涼しい顔をしていやがる。 (くそっ)  俺は感情を顔に出さないように努めながらラジオのボリュームを絞った。テレビ中継よりもよく喋る実況アナウンサーが、真木の走りを詳細にまくし立てていた。  手元の時計に目を落とす。真木は序盤に突っ込み過ぎたせいで十二キロメートルを過ぎた辺りからペースが落ち始めていて、今では一キロメートル三分十二秒ペースで走っている。それでも後ろを走る東都体育大学とは五分近く差がついている。ダントツの一位だ。これから九区十区でアクシデントがなければ、ブレーキすることさえなければ、俺たちの優勝は限りなく現実に近くなる。  チームの優勝。誰よりも俺が願っていたことのはずなのに。  当の俺は今、ただ悔しかった。本当はこんなところにいることすら嫌だった。松ノ宮のユニフォームを着て時を待っている羽浦がひたすらに憎らしかった。  去年の一月四日のことだ。監督に呼び出された俺は、そこで新キャプテンに任命されたことを知った。『五位という結果に終わった今回の箱根駅伝から成長するためにはきっかけが必要だ。火田が先頭に立って部を引っ張ってくれ』――監督はそう言っていた。俺のこれまでの三年間が認められたのだと思った。嬉しかっただなんて言葉じゃ足りないくらいだった。  俺が調子に乗りやすい性格だということ、身体の調子がすこぶるよかったことも重なって、俺の大学最後の陸上生活は最高だった。春の記録会の五千メートルレースで日本人一位になったし、夏合宿を終えて最初の記録会では一万メートルで二十八分四秒を叩き出した。松ノ宮大学駅伝部で歴代一位の記録だった。  もちろんいいことばかりではない。キャプテンともなると、部内のいざこざの仲介役に駆り出されることなんてざらだ。俺も感情に流されやすい方だし、器用な方でもないから、はじめはそんな場に引きずり出されてもどうしていいか分からなかった。そんな時に助け船を出してくれたのが羽浦だった。あいつは俺と真逆で、物静かで冷静で、周りをよく見ていた。目立って前に出てくるようなことは少なかったが、俺が部内で上手く立ち回れるよう、いつも陰ながらフォローしてくれていた。  羽浦とはウマが合った。同じ文学部で、寮も同室。俺と同じくらいのタイムを持っている。共通点が多いからか、陸上雑誌からの取材も一緒に受けることが多かった。俺と羽浦は雑誌記者から『松ノ宮のダブルエース』だなんて呼ばれていた。  陸上で結果を出して、仲間にも恵まれて、本当に最高だったんだ……ほんの一カ月前までは。  羽浦と二人でトラックを走っていた時だった。一万メートルを走り、より記録がいい方を箱根でエース区間に起用する――監督が提案した単純明快なルールに俺は気合いが入っていた。絶対俺が勝つと信じていた。  慢心。そう呼ぶ人もいるだろう。空回り。そうとも言える。これまでどこか無理してきたのかもしれないし、選考レースというものに緊張したのかもしれない。あちこちで少しずつ狂った身体はバランスを崩し、俺は転倒した。  その瞬間、俺の右足に激痛が走った。  一カ月後に箱根駅伝を控えた選手の足が痛いだなんて! 俺はすぐさま病院へ運ばれた。診察の結果、医者が下した怪我名は第二中足骨疲労骨折。全治三カ月。  もう、絶望するしかなかった。 「ねえ、火田」  名前を呼ばれて顔を上げる。「これ」と羽浦が差し出してきたのは音楽プレーヤーだった。イヤホンを耳から外して、もう片方の手はベンチコートにかけている。 「もう出て、真木を待っててあげなくちゃ」 「……そうだな」 「これ預かってて」  プレーヤーを俺に押しつけるとコートも脱いで放り出す。それを空中でキャッチして、俺は羽浦に背中を向けた。  同室の仲間、羽浦。  俺の代わりに九区を走る、羽浦。  何で俺じゃない。何で羽浦なんだ。  俺が走るはずだったのに、俺が走るべきなのに。  何で俺がこんなところで、羽浦のベンチコートを抱えてやらなきゃならないんだ!  握り締めたコートに皺が寄る。苛立ちが皺となって折り重なる。 (くそっ……!)  俺は羽浦に向き直った。 「羽浦!」  自分でもびっくりするほど大声を出した。チームメイトを待っている選手たちや大会スタッフの注目を集めてしまい一瞬後悔したが後の祭りだ。ベンチコートをラジオの上に投げ捨てると、俺は相変わらず表情を変えずにこちらを見返す羽浦に歩み寄った。 「これは俺のレースだ。俺が走るレースだったんだ。お前のレースじゃない」  羽浦の視線が俺の右足に落ちる。俺の足はギプスでがっちり固められている。その足で走る気なの? とでも言いたげに。  かっとなって、俺は羽浦のランニングシャツを掴んだ。 「中途半端な走りをしてみろ! そんなことしたら、俺はお前を許さねえ!」  確かに羽浦は速い。でも羽浦の一万メートルのベスト記録は二十八分十五秒、俺より十一秒も遅い。羽浦は二番だ。俺が一番だ。俺の方がこのレースには相応しい。  しかし羽浦は。 「うるさいよ」  俺の手を払い退けた。 「火田は速い。でも強くない。その結果がそれなんだよ」  羽浦がまた俺の足を見る。 「箱根を走るのは僕だ、火田じゃない。これは僕のレースなんだ」  言い放って背中を向ける。そして。  周りの話し声も、大会スタッフの大声も、上空のヘリコプターの飛行音も、聞こえなくなった。 「必ず勝つさ」  レースに向かう羽浦の声だけが、俺の耳朶を打ったのである。 「悔しい」  俺の口からそうこぼれた。と同時に、周りのあらゆる音が俺の耳に流れ込んだ。  沿道の歓声は、真木が羽浦にトップでたすきを渡したことを意味していた。俺は荷物の間で丸めてあった真木のベンチコートを掴んで人の波を掻き分けた。大会スタッフに抱えられるようにして歩く真木に近づいてコートを被せる。「よくやったな、真木!」と声を掛けたが、真木は首を横に振った。 「たいむさ」 「え?」 「うしろ、との、たいむさ」  咳込みながら真木が言う。東都体育大学とのタイム差を聞かれているのだと気づいて、反射的に腕時計を見た。 「たすき渡し時点で四分五十秒だ」 「じゅうさんびょう……つめられました、よね、すんません」 「いや、大丈夫だ」  十三秒くらいたいしたことはない。ビニルシートの上に毛布を重ね、そこに真木を座らせる。 「羽浦は、強いからな」  俺はラジオの上のコートを退けてボリュームを上げた。ラジオは『松ノ宮大学初優勝に向けて、四年の羽浦が一段とスピードを上げました!』と叫んでいた。