ことのはに  画面左下のスタートボタンをクリックし、シャットダウンを選択する。数度画面が揺らぎ、パソコンは電源を落とす準備を始める。画面の暗転を待つ時間を利用して机回りの書類を束ねていると、机を挟んで正面に座る同期が「おっ」と顔を上げた。 「店じまい?」 「まあね」 「早いじゃない」  言われて反射的に左手首を見る。時計は十八時を指し示している。ここ一カ月ほどは二十一時過ぎまで残業することが多かったから、確かにそれと比べれば早いかもしれないが。 「弊社は十七時が定時ですので、社の規定により帰宅させていただきます」  わざとらしくうやうやしく頭を下げると同期は口をへの字に曲げた。 「知ってるよそんなこと」 「まだ終わんないの?」 「今日の会議の議事録、全っ然まとまらん」 「要点抜き書きするだけでしょ」 「簡単に言うなよ」  マウスを握ったまま机に突っ伏す。その様はまるで、仕事中に息絶えた会社員だ。ああはなりたくない。首を横に振って端を揃えた書類を引き出しにしまう。机の下に転がしてあった鞄を拾って立ち上がると、同期は顔だけ上げてこちらを見た。 「手伝おうとかそういう気にはならないの!?」 「人の仕事を奪っちゃ悪いじゃない」 「そう言って、本当は早く帰りたいだけだろ! そうだよなあ新婚だもんなあ」 「結婚したの一昨年だけど」  そもそも、今日は帰ったところで家に誰もいなかった。親と同居はしていないし子供もまだいない。そして『新婚』の妻も外出中だ。「食事に出掛けます、日付が変わる前には帰りますから」と言っていた。  専業主婦の妻がいないとなると、困るのは夕食だ。今から帰宅したとして家に着くのは十九時過ぎ、それから支度を始めると食事が出来る頃には二十時を回ってしまう。そうすると後のことは更に遅くなるだろう。就寝時間まで遅れることがあれば、明日の朝に響いてしまう。会社員としてそれは避けなければならない。そして何より、僕は料理が得意ではない。  頭をかきむしる同期を応援する言葉だけ投げ掛けると彼に背を向けた。朝出社したばかりの時はぴっちり撫でつけてあった髪があらぬ方向にはね、髭も伸び始め、随分とくたびれた彼を見ていられなかった。きっと僕自身も同じような見てくれになっているだろうから。  幸い昨日は給料日だった。財布も銀行口座も比較的裕福であることだし、どこかで食事をして帰ろう。そんなことを考えながら外へ出る。まだ明るい。帰宅時に太陽を拝めるなんて久しぶりだった。  しかし何を食べようか。特に食べたいものがある訳ではなく、食事の選択肢を絞り込めないままぶらぶらと帰路につく。心が決まらないから明確な目的地などあるはずがない。そのせいで通勤路から外れる理由もなく、足はいつもどおりバス停に向かってしまった。定刻から僅かに遅れてやってきたバスに乗る。バスは規定のルートを通り、僕の自宅近くに向けて走る――このままでは家に着いてしまう! 何かしなくては。その考えが腕を持ち上げた。降車ボタンが点灯し、やがてバスは停まった。  僕は最寄りのバス停のひとつ手前で下車した。ここから家まで歩けない距離ではない。日は既に暮れ始めていたが、明るさに不足はない。歩きながら道中で食堂でも探そう。問題は、住宅地であるこの辺りには飲食店がほとんどないことだが、決して皆無ではない。何でもいい、目についた最初の店に入って、そこで夕食をとることに決めた。  バス通りから反れ、一本奥の道に入る。普通自動車が何とかすれ違える程度の細い道を通る人は少ない。皆無と言ってもいい。道路の両脇に建ち並ぶ家から時折談笑が聞こえるくらいで、それ以外に人の気配は感じられなかった。  空腹だからだろうか、夕食時の暖かな団欒が羨ましい。この感覚を誤魔化す為にも腹を満たしたい。どこかの家庭の台所から漂ってくるカレーの匂いに心惹かれながら、僕は更にもう一本奥の道に足を踏み入れた。  そこにあったのはこぢんまりした店だった。二階建ての家に囲まれた猫の額のような土地に平屋が建っている。灰色がかった土壁に黒の瓦屋根は日本古来の家屋のそれだが、小さな建物にはその重厚感は不釣り合いだった。まるで幼い子供が鎧兜を身に付けているようなアンバランスさだった。  道路と敷地との間にはブロック塀の代わりに、今は花のない山茶花が植えられている。生垣を越えた先に引き戸があり、『食事処 ことのは』と藍で染め抜かれた暖簾がかけられていた。  はて、こんなところに料理屋なんかあっただろうか。首を傾げる。この辺りは日頃あまり通らないが、車で出掛けようという時には、バス通りの信号を避けて路地を走ることもある。二カ月ほど前にもこの道を走った。その時の僕の記憶では、ここには売地の看板が立っていたはずだったが。  いや、二カ月前に見たあの直後に売れて、店が建ったのかもしれない。土壁瓦葺き屋根の家が二カ月で建つのかどうかは知らないが、小さな建物だし案外早く完成するのかもしれない。  正直なところ、そんなことはどうでもよかった。今大事なのは、目の前にある『ことのは』は食事処で、しかも営業中であるということだ。自身で決めたルールに従い、僕は『ことのは』の戸を引いた。  店内は外観から想像するに難くない、和風の作りだった。向かって右手から奥に向かってカウンター席が延び、左手には畳張りの座敷がある。壁にビールメーカーのポスターが貼られ、中からビキニ姿の女性が笑いかけてくる。天井から吊り下がった電気傘には白色蛍光灯ではなく電球が取り付けられており、橙色を帯びた光が店内の暖かさを演出していた。  客は僕以外にいなかった。建物の大きさの割に広く感じるのはそのせいだろうか……いや、それだけではないような気がする。不思議に思って店内を見回していた時だった。 「お客かい」  カウンターの奥から、割烹着を身につけた女性が顔を出した。年の頃は僕の母と同じくらいだろうか。白髪が目立つ髪を頭の後ろでコンパクトにまとめ、縁のない眼鏡をかけている。和服を着て背筋を伸ばし、更に女性としては低く響く声。その様に圧倒され、僕はただ頷くしか出来なかった。 「ひとり?」 「え、ええ」  喉に貼りついた声を何とか剥がす。しわがれてはいたが彼女には届いたらしく、「好きなとこに座りな」とカウンターを顎でしゃくった。  僕がカウンターの椅子に身を落ち着けると同時に彼女は水を出してくれた。伸ばした右の袖を左手で押さえる仕草が美しい。今でこそ頬の肉が垂れ、目元に皺が寄っているが、若かった頃は品のある美しい女性だったのかもしれない。 「メニューは壁だよ。好きなの選びな」  言われて顔を上げる。カウンターの内側の壁には和食を中心に様々な料理の名前が列挙されていた。ホッケの開き、肉じゃがから、和風ハンバーグまで、メニューの幅は広い。人間、選択肢が多いと迷うもので、僕もかなり迷ったが家ではなかなか食べることのない鯖の味噌煮の定食を注文した。  静かだった。ここにあるのはカウンターの中で調理器具がぶつかる音、火が調味料を焦がす音、換気扇が回る音だけ。外から車のエンジン音や人の話し声が聞こえてくることもない。小さな調理音はこの広く見える屋内で響き、実際よりも大きく聞こえる。それがどことなく心地いいのは、この音が実家の台所を思い出すからだろう。  出来るだけ静かに水のグラスを置き、僕は思い切って口を開いた。 「おひとりでこのお店をやっているんですか」 「そうだよ」女性は――ことのはの女将はこちらを見ずに答える。「料理も片付けも店の掃除も、全部あたしひとりさ」 「大変では?」 「見ての通り客なんか滅多に来ない。忙しくないんだから、楽なもんだよ」  オープンしたての店にはよくあることだ。有名ホテルのレストランのシェフが独立して始めた店だとか、海外で人気の店が日本初上陸だとか、そういった話題性のあるところでなければ、開店直後から満員御礼とはいかない。  しかし女将は「のんびりやってる店だからね、このくらいでちょうどいいのさ」と言う。この店の経営はいわゆる『老後の楽しみ』というやつなのだろうか。何とも羨ましい話である。 「ほら、定食のご飯とお味噌汁」  カウンターの向こうから美しい仕草と共に椀が二つ差し出された。ご飯には艶があり、味噌汁からは湯気と共に出汁の香りが立ち上る。あとから添えられた小皿には沢庵が二切れ乗っていた。  それから程なくして、丸い皿に盛り付けられた鯖の味噌煮が登場した。厚みのある鯖にたっぷりと味噌の煮汁がかかり、切り身と一緒に煮詰められた生姜の香りが空っぽの胃を刺激する。煮汁に乗った白髪葱の白が映え、目にも鮮やかだった。  軽く手を合わせ、目の前の箸立てから割り箸を取る。景気のいい音を立てて割れた箸を握り直して先を鯖に当てる。箸先が皮を突き破ると中からふっくらとした身が姿を現す。軽くほぐして煮汁を吸わせてから口に運ぶと、少し焦げた味噌と鯖の香りがいっぱいに広がった。 「おいしいですね!」  素直な感想を伝えると女将は「そうだろ」と頷いた。 「ちゃんと火を通したからね」  腕がいいから。素材がいいから。水がいいから。美味い料理には必ず理由がある。だからきっと、女将は味噌煮が美味しい理由を教えてくれたに違いない――話の流れを考慮して何とかここまでこじつけたが、だから何だと言うのだろう。生焼けの部分は見当たらないが、加熱調理するならそれは当然のことだ。『火を通した』からといって、それが美味しい理由たりえるだろうか。 「……どういう意味ですか?」  真理を図りかねた僕は首を傾げた。 「確かに中まで火が通ってますが」 「そいつはただの味噌煮じゃないってことさ」  ますます意味が分からない。先を促すと女将はやれやれと肩をすくめた。 「あたしは料理人だからね。客とあたしの橋渡しをするのはあたしの作る料理だ。で、あたしの心を客に伝えるのが料理の役目。言い換えれば、その味噌煮はあたしの言葉って訳だ」  分かるような分からないような。生返事をしながら鯖をほぐす。身が煮汁を含み、色を変えていく。 「人に伝える言葉は温かい方がいいだろ?」  女将の声に僕は手を止めた。彼女の目を見た。 「その方が、受け止めた人を幸せに出来るじゃないか」  ああ、そうか――僕はようやく感じ取れた。彼女の言葉を。心を。  彼女の料理は、彼女そのものなのだと。  味噌煮が美味しい。濃いめの味付けは白いご飯によく合う。ご飯が進む。たまに味噌汁や沢庵で休む。そのあとに食べる鯖は更に美味しく感じた。  僕はあっという間に定食をたいらげ、満腹の幸福に浸りながら水をすすった。「ごちそうさま」という言葉と共にあいた皿をカウンターへ返す。  そんな僕に、女将は。 「あんたはもっと言葉に火を通す努力をした方がいいんじゃないかい?」  こう言った。 「どういう、意味ですか」 「そのままの意味さ、ここには『そういう』奴しか来ないんだからね。あんたは……大切な人と分かり合えないことを、仕方ないと思っているんじゃないかい?」  言われて蘇ったのは妻の言葉。『食事に出掛けます、日付が変わる前には帰りますから』。僕はただ『そうか』と応えた。『誰と?』とは訊かなかった。誰と出掛けるのか気にならなかった訳ではない。訊けなかったのだ。  新婚当初の舞い上がるような感情も、二年も経てば落ち着いた。それに加えて僕の連日の残業である。妻と顔を合わせるのは出社前の早朝か帰宅後の深夜。当然すれ違うことが増えた。愛する人と結婚したはずなのに、全くの他人と同居しているような、酷い錯覚すら覚えるほどだった。しかし何よりも酷いのは、仕事を口実に仕方がないことだと割り切ろうとしている自分自身だ。僕はそれに気付かないふりを続けていた。  しまい込んでいたことを女将に指摘され、美味しかった料理に対する思いは一瞬にして灰となった。ふらりと立ち寄っただけの、ただそれだけの料理屋の女将に、なぜそんなことを言われなければならない? 誰よりも自分が分かっていることなのに、どうして他人が分かったような顔をする? 「あなたには関係ないでしょう!」  声を荒げた僕はカウンターに千円札を叩きつけた。鞄を掴んで立ち上がる。 「二度と来るんじゃないよ」  女将の声が僕の背中に刺さる。言われなくても、二度と来るものか。椅子やテーブルに鞄がぶつかっても構うことなく、まっすぐに店の戸へ向かう。 「『言葉に火を通す』、忘れるんじゃないよ」  それが、僕が聞いた最後の女将の言葉だった。僕は引き戸をぴしゃりと締めた。こうすることで、僕は彼女が支配する空間から切り離され、解放されたのである。  自宅に辿り着くと、窓からは明かりが漏れていた。帰りが遅くなるようなことを言っていた割に、妻の方が先に帰っていたのである。 「もっと遅いかと思ったよ」  言うと妻は「いろいろあったのよ」と肩をすくめた。  曰く、彼女が学生だった頃からよく遊んでいた仲間のひとりが今日誕生日を迎えた。仲間内でリーダー格だったひとりが誕生日会を計画し、皆を集めた。しかし当日を迎えてみれば、主賓がどうしても仕事を抜けられないと言う。加えて主催も高熱を出してしまった。主賓も主催もいないとなれば、ただの食事会である。集まったメンバーだけで仕事はどうだ、家庭はどうだなどと近況報告をして、早々に解散となったのだそうだ。 「そうだったの」 「ええ。ただのおしゃべりも楽しかったけど、やっぱりしらけちゃうわよ」  それで? 僕の脱いだスーツをつるしながら妻は横目で僕を見た。 「あなたはどこで食事をしてきたの?」 「僕の方も、酷い話で」  家まで歩く途中で少しは落ち着いた怒りが再燃した。料理は美味しかったような気もするが、どんな味だったか思い出せない。ことの流れを掻い摘んで(妻への負の感情の部分については触れずに)説明し、「全く失礼な女将だったよ」と締め括ると、妻は小さく噴き出した。 「その女将さんに言われた通りじゃないの」  笑われていい気はしない。僕は唇を尖らせたが、しかし一方で安心した。妻が笑うのを見たのは、とても久しぶりに思えたから。 「僕はそんなつもりないけど」 「言葉が冷たいというか……そうね、いつも言葉が足らないから、冷たく感じるのかもしれない」  以心伝心という言葉がある。しかしそれにも限界がある。思ったことは言葉にしないと伝わらないわ――スーツをしまった箪笥の扉を閉じて、妻は「それにしても」と振り返った。 「そんなお店、あったかしら」 「バス通りの二本裏に空き地があったでしょ。そこに最近出来たみたいだよ」 「空き地があるのは知ってるわ。でもその道、先週も通ったけど、まだ売地だったはずよ」 「……え?」  二度と来るなと言われた。二度と行くものかと思った。しかし妻の言葉が気になって、翌日もあの路地に行ってみた。  あのこぢんまりした店はどこにもなかった。  近隣の住民たちに訊ねてみたが、誰も『ことのは』を知らなかった。空き地は二カ月前からずっと空き地らしい。