かつのみ  つばめの席は教室の一番後ろ、一番廊下側である。出入り口の前のこの席は、他のどの席よりも隣の教室に行きやすい場所であり、つばめにとっては非常に都合のいい席でもあった。なぜならつばめは頻繁に隣の教室に顔を出しているからであり、その理由は、双子の姉が隣のクラスに在籍しているからであった。  九月一日、二学期初日。つばめが登校すると、その都合のいい席の周りには変化が起こっていた。つばめの席の隣に、もう一組机と椅子が増えていたのである。近くにいた生徒をつかまえて聞けば、運び込んでいたのは今日の日直だという。黒板右隅の『今日の日直』欄に書かれたクラスメイトの名前を確認し、つばめはその生徒に声を掛けた。 「ねえ森屋君、机が一つ増えてるみたいだけど……」 「ああ、あれか。先生に言われて空き教室から持ってきたんだ。今日からうちのクラスに転入生が来るんだって」  転入生とは。つばめは首をひねった。この辺りは米作が盛んな農村であり、ありていに言えば田舎である。こんな田舎に誰かが――しかもつばめと同年代の子供がいるような家庭が――引っ越してくるようなことがあれば目立つし、あっという間に噂になる。二学期から転入ということは夏休みの間に引っ越してきたのだろうが、そんな話は聞いた覚えがない。 「不思議だなあ」  つばめが呟くと、それには机を運んできた本人も同意のようだった。 「俺も先生から転入生のこと聞いて、『あれ?』って思ったんだ。取り壊された家の話なら聞くけど新しく家が建ったって話は聞かないし」 「親戚の家に引っ越してきたとか? それか、トラブルに巻き込まれてひっそり……とか」 「親戚云々はともかく、トラブル云々はドラマの見過ぎでしょ」 「えーそうかなあ、結構アリだと思うんだけど。会社が倒産して借金取りに追われて命からがら逃げてきてようやく辿り着いたのがこのド田舎! ……って具合で」 「ないね」  ばっさり切り捨てられて頬を膨らませるつばめだったが、こんなことをしている場合ではない。急いで教室を出て隣の教室に駆け込んだ。  姉のつぐみは席に着き、およそひと月ぶりに顔を合わせた隣の席の女子生徒と話に花を咲かせていた。せっかくのところを申し訳ないなあと思いつつ、しかしこちらもビッグニュースである。強引に「つぐみつぐみ!」と割り入った。 「つばめ? どうしたの」 「聞いて聞いて! うちのクラス、転入生来るらしいよ」 「へえ、男? 女?」  問われて、言葉が止まった。そういえば日直の彼が話したのは『転入生が来る』という事実のみで、それ以上のことは何も聞いていない。 「……さあ? 知らない」  素直に真実を姉に伝えると、「それだけ?」と呆れたような声が返ってきた。 「まあ、これだけ……だけど」  言葉を詰まらせたつばめの後を継いで、先ほどまでつぐみと話していた女子生徒が「でも珍しいよね、転入生って」と言った。それを受けてつぐみも「まあ確かに、どこに住んでる子なんだろう」と首を傾げている。  その後しばらくまだ見ぬ転入生についてあれこれ想像していたが、それも始業のチャイムによって遮られた。姉とその友人に手を振り、しばしの別れを告げて廊下へ出ると、クラスメイトたちが出席番号の順に並んでいた。 「どこ行ってたんだよ橘さん、早く並んで」 「ごめんごめん」  皆を整列させていたクラス委員と出席番号前後の生徒に頭を下げる。つばめも列に入ると、クラス委員を先頭にして列が進み始めた。廊下を進み、階段を下り、全員でぞろぞろと向かう先は体育館。体育館では、教頭先生を中心に第二学期始業式の準備が始まっていた。  列を崩さずに体育館に入り、座って式が始まるのを待つ間、つばめは体育館壁際に立つ学年主任とその隣に立つ見慣れない生徒を見つけた。 「ねえ、転入生ってあの子かな?」 「女の子だね」  周りのクラスメイトたちが囁き合っているのが聞こえてくる。不自然にならない程度に首を回し、噂の転入生を視界に入れた。  つばめの着ている、近所に住む年上のお姉さんからもらったセーラー服とは違い、女子生徒のそれは皺ひとつなく、見るからに真新しかった。更に、真っ白な靴下と上靴を身につけた彼女は、一見新入生のようだ。しかしその顔だちは大人びていて、小学校を卒業したばかりの一年生たちどころか、つばめたち中学二年生とも、纏っている空気が違っているように思える。  そして何よりつばめの目を引いたのは女子生徒の髪型だった。  彼女は艶のある黒髪を、頭の左右高い位置で団子状に結っていた。団子の大きさから、その髪はきっと下ろせば腰まで届くのであろうことが想像出来る。テレビに出ているようなアイドルや雑誌のモデル等には、つばめと同じ年頃でもあのような髪型をしている人もいるが、学校にそのような髪型で来る人を見たのは初めてだ。 (珍しいなあ……)  内心呟くだけで声には出さなかったのは、教頭先生がマイクの前で話し始めていたからであった。  生徒間の囁きは正しかった。式の途中で、壇上であいさつを述べていた校長が女子生徒を呼んだ。 「それでは、今学期から本校に通うことになった転入生を紹介します。さ、挨拶して」  校長に促され、マイクを渡された彼女は一礼した。 「二年一組に転入してきました、藤原美鶴です。よろしくお願いします」  鈴のように透き通った、しかししっかりとした芯を感じる声だった。全校生徒の視線を浴びて緊張したのか頬が紅潮しているが、背筋を伸ばし、堂々と立っている。『お願いします』と同時に再び一礼した彼女の振る舞いは美しく、周囲が歓迎の拍手をする中、つばめは彼女の所作に見入っていた。  式が終わり、つばめが教室に戻ると、美鶴は既に教室にいた。教卓前には担任の山戸先生が立っており、つばめは急いで自分の席に戻る。  全員が席に着くと、山戸先生は改めて美鶴をクラスメイトたちに紹介した。 「今日から皆とこのクラスで勉強することになった、藤原美鶴さんです。初めは分からないことも多いでしょうから、皆助けてあげるように」 「よろしくお願いします」  美鶴が頭を下げるのを頬杖を突きながら見つめていたつばめは、顔を上げた美鶴と目が合い、なぜかつい目を逸らしてしまった。どう考えても不自然である。そろりそろりと視線を戻すと、美鶴はにっこりと笑っていた。  山戸先生がつばめの隣の空席を指差した。 「後ろにひとつ席を用意してあるから、藤原さんはそこに座って。目が悪いとかで黒板が見えないようならまた言ってね」 「はい」  美鶴がまっすぐつばめの方に向かってきた。一度目を逸らしてしまったせいでこちらは何となく気まずく思っていたが、美鶴は気にしていないらしい。笑顔で一言「よろしく」というと静かに椅子に座った。思わず「ああ、はあ」と間抜けな声を出してしまってから、慌てて姿勢を正した。 「あ、あたし、橘つばめです。こちらこそよろしく」 「ええ」  美鶴の長い前髪が、ふわり、と揺れた。  この日は始業式の後、夏休み前に返却された通知表や夏休みの宿題を提出し、掃除をするだけで放課となった。部活動もなく、むしろ正午までに帰宅しなければならない。つばめも帰ろうと荷物をまとめていると声を掛けられた。 「あの、橘さん、このあと少し時間あるかしら」  隣の席から美鶴が、遠慮がちに訊ねてきた。 「え、大丈夫だけど、どうかしたの?」 「ちょっと学校内を案内してほしくて。明日からの生活に支障がないように」  そう言うと美鶴は壁に貼られた時間割表をちらりと見た。明日の授業は体育、美術と、実技科目が並んでいる。それはつまり、教室移動が多いことを意味する。特に一限目の体育は、更衣室の場所を把握していないと移動と準備にもたついて面倒だろう。  ここは田舎の小さな中学校である。学校を一周するにもそう時間はかからない。黒板上に掛かった時計を見上げて正午までまだ時間があることを確認し、つばめは私物を入れたリュックサックを背負った。 「いいよ。じゃあ行こうか!」  その言葉を聞いた美鶴は笑顔になった。それはつばめが知る限りでもっとも綺麗な笑顔で、つばめの心臓はどくんと大きく脈を打った。  二年一組の教室を出た二人は、各学年の教室が並ぶ廊下を通り抜けた。まずは明日利用することになる美術室まで案内する。美術室を始点として、理科室、家庭科室、図書室と順に特別教室を巡り、利用率が低いであろう事務室の前を最後に通り過ぎて生徒玄関へ向かう。 「校舎内はこんなところかなあ。あとは外を一周するね」 「助かるわ、ありがとう」 「いやいやーどういたしまして」  上靴を脱いで靴箱に収め、スニーカーに履き替える。外へ出ようと顔を上げて、つばめは玄関先に姉が立っていることに気付いた。  つぐみもつばめたちに気付いたのかこちらを振り向いた。つぐみの顔を見て、美鶴が目を丸くする。 「橘さん……ふたり?」  美鶴が驚くのも無理はなかった。一卵性双生児のつぐみとつばめは、母親でさえ間違えるほどによく似ているのである。その上今は、髪型も似たようなボブカットで、事情を知らない者が見れば、それは混乱もするだろう。 「藤原さん、こっちはあたしの双子のお姉ちゃん。橘つぐみ」  美鶴につぐみを紹介し、今度はつぐみの方を向いた。 「知ってるだろうけど、藤原美鶴さん。うちのクラスに来た転入生」 「はじめまして。つばめの姉です」 「橘さん、双子だったのね。わたし、びっくりしちゃったわ」  双子、と聞いて落ち着いたのか、美鶴は深く息を吐き出して胸を撫で下ろした。つばめもつぐみと顔を見合わせ苦笑した。  この辺りは子供が少ない為、同じ学校に通っている生徒とは、他学年も含め全員と顔見知りの関係になっている。そして幼い頃からずっと一緒に育ってきているから、双子だからと今更驚かれることもない。だから美鶴がしたような反応をされるのは、つばめたちも久しぶりだった。 「ねえ藤原さん、あたしのことはつばめって呼んでよ」 「そうだね、紛らわしいし。私も、つぐみで」 「それじゃあわたしのことも、名前で呼んでくれるかしら」 「もちろんだよ、美鶴さん」  その後はつぐみも交えて三人で学校敷地内を一周した。バスケットコートとバレーコートの間を抜けてグラウンドに出、部室棟の前を通りながらつばめの所属するソフトボール部に美鶴を勧誘したがやんわりと断られてしまった。  体育館の裏を通りプール脇にある更衣室の入り口を美鶴に教えてから校門に出ると、教員たちが門の前に集まっていた。教頭先生も学年主任も何やら難しい顔を突き合わせて話している。山戸先生もそれに加わっていたのだが、つばめたちに気付くとこちらへ駆け寄ってきた。 「橘さんたち、まだ帰ってなかったの?」 「すみません先生、藤原さんに学校の案内をしてまして」 「そうだったの。それはご苦労様」  三人は山戸先生に背中を押され、門の外へ出た。 「通り魔の件もあるし、気を付けて帰ってね」 「はーい」 「さようならー」  通り魔。それはとても非現実的な響きを含んでいながら、紛れもない現実だった。  最近この辺りで連続通り魔事件が発生し話題となっていた。十人にものぼる被害者たちは皆、後ろから鋭い刃物のようなもので斬りつけられている。しかも老若男女は問わず、ひとりきりで屋外を歩いている時に襲われているのだ。不幸中の幸いと言えばよいのだろうか、被害者は全員軽い切り傷程度で済んでいるそうだが、犯人はまだ捕まっていない。今後重傷者、或いは死者が出ないとも限らない。『外を歩く時はなるべく複数人で、細心の注意を払うように』――警察は連日、近隣住民にそう呼びかけていた。  つぐみがわざわざつばめを待っていたのもその為だった。警察の注意喚起とマスコミの報道で不安になった母親が、必ず一緒に登下校するようにと言ってくるのである。心配し過ぎのようにも感じられるが、これを怠ってぶっすり刺されては堪らない。言われた通りに仲良く帰宅しながら、つばめはふと、美鶴のことが気にかかった。 「美鶴さん、家はどこ?」  畑道の十字路に差し掛かったところで訊ねると、美鶴はまっすぐ進んだ先の集落を指差した。 「一人にならない方がいいよ。送っていこうか?」 「いいえ、大丈夫よ。すぐそこだもの」 「でも……」 「心配しないで。本当に、大丈夫だから」  断られてしまうと、無理にとも言えない。「また明日」と言うと美鶴は十字路を直進し、つばめとつぐみは左に曲がった。  十字路からつばめたちの自宅まで更に十五分ほど歩いたが、家に着くまで誰にも会わなかった。  夏休みが明け、九月になったと言ってもまだまだ暑い。日中何もしなくても外にいるだけで汗が噴き出してくるし、夏の代名詞である蝉も喧しく鳴いている。  始業式翌日からさっそく始まった体育の授業も、秋の運動会を一カ月後に控えていながら、その内容はまだ水泳であった。ソフトボールであれば自由に動くつばめの身体も水中では言うことを聞かず、上手く泳ぐことが出来ない。しかも朝一、一限目の授業である。起きてから二時間と経たない内に水に入って、身体に悪くはないのだろうか。それ以前にそもそも陸上に生きる人間は泳げる必要があるのだろうか。ぶつぶつと御託を並べながらプールに向かおうとして、つばめはその前にトイレに立ち寄った。  生徒玄関にほど近いトイレは、つばめと同様これから水泳の授業に向かう生徒たちで混雑していた。つばめのクラスメイトだけでなくつぐみたち二組の生徒も出入りしているのは、二クラス合同で体育の授業を受けているからだ。  急がなければ授業に間に合わない。何をする訳でもなくたむろっている生徒を掻き分けて用を済ませると、つばめは廊下の手洗い場で手を洗った。トイレ内の手洗い場は髪の長い女子により占領されて、とても使えそうになかったのだ。水泳の授業では安全と衛生の面から、髪を水泳帽の中に全部入れなければならない。この為ほとんどの髪の長い女子は水泳帽に入れやすい髪型で登校してきていたのだが、それを忘れていた一部の生徒が、こうして授業直前に髪を結い直しているのである。  そういえば――駆け足で外に出たつばめは、更衣室の奥で着替える美鶴を横目で見た。すらりと伸びた手足は日焼けを知らないかのように白く美しい。そして髪は昨日と同じく、頭の左右高い位置で団子状に結われていた。その髪を直すことなくそのまま帽子をかぶるせいで、後ろから見ると頭が大きな逆三角形になったように見える。 「ねえ、その髪じゃ泳ぎにくくない? 水の抵抗とか何とかでさ」  美鶴に訊ねると、彼女は少し困ったように、恥ずかしそうに頬を染めた。 「わたし、顔を水につけることが出来なくて……だから泳ぎにくいとか、そういう問題ではないの」  なるほど本人の言う通り、プールに入っても美鶴は顔に水がかかるのを嫌がり、隅で浮いているだけで積極的に泳ごうとしなかった。泳ぎが苦手なつばめとはいいコンビである。バタ足で水を蹴る練習をするつばめに美鶴が付き合い、水に顔をつける練習をする美鶴をつばめが応援した。  練習の時間が終わり、体育教師が全員にプールから上がるよう指示した。クロールの二十五メートルのタイムを計るのだと言う。呼ばれて泳ぎ始める順を聞いていると、どうやら泳ぎの得意な生徒からタイムを計っているらしい。それならばつばめや美鶴が呼ばれるのは最後の方か、もしかしたらタイムなど計らずに終わるかもしれない。  美鶴と並んでプールサイドの日陰に座っていると、つばめほどではないが、やはりあまり泳ぎが得意ではないつぐみがやってきた。彼女もまた、しばらく呼ばれることはないだろうということに気付いたのだろう。つぐみは美鶴を挟んでつばめの反対側に腰を下ろした。  順調にタイムを計っていくクラスメイトたちを見ながら、あのくらい泳げたら気持ちいいのだろうなあと考えていると、つばめの耳に「ねえ、つばめさん」という美鶴の声が入ってきた。しかし顔を上げれば美鶴はこちらを向いておらず、つぐみに話しかけている。 「美鶴さん美鶴さん、つばめはこっち」  美鶴の肩をつつくと、彼女は口に手を当てて「あら、ごめんなさい」と申し訳なさそうに言った。伏せられたまぶたと長い睫毛が震えていた。 「わたし間違えてしまったのね、ごめんなさい」 「そんな、謝らないでいいよ」 「だけど……あなたたち、本当にそっくりなのね」 「まあ、一卵性だしね」  出会って日が浅い美鶴がつばめとつぐみを間違えるのは仕方ないことである。それは双子自身よく分かっていた。  話題を変えようと、つぐみが「そういえば」と切り出した。 「ねえ、美鶴さんはきょうだいっていないの? お兄さんとか、妹さんとか」 「ええ、わたしは……」 「じゃあ次、橘姉妹!」  美鶴が答えるのと体育教師が双子を呼んだのとはほぼ同時であった。ろくに前に進まないというのに、水面をばしゃばしゃする女子中学生の移動速度を計って何が楽しいのか。訴えてはみたもののそれが体育教師に受け入れられるはずもなく、つばめは早くも生ぬるくなり始めたプールに足を入れた。  結局つぐみの質問に対する回答が聞けないまま体育の授業は終わり、つばめと美鶴は連れ立ってプールをあとにした。教室へ戻るまでの間ずっと髪を拭き続けていたつばめだったが、対して美鶴は髪をほどこうとしない。いくらこの気候でも、あれでは髪が乾かないだろう。 「ねえ、そのままだと髪傷んじゃうんじゃない?」  つばめが首を傾げると、美鶴も「そうね」と頷いた。 「でもわたし、つばめさんたちのように泳いだ訳じゃないからあまり濡れていないのよ」 「あっ、そうか」  言われてみればその通りである。顔を水につけられないのであればクロールも出来ず、美鶴はタイムを計らずに授業を終えたのであった。納得したつばめはそれ以上何も聞かず、自分の席に着いて二限目の国語の教科書をリュックサックから出した。  隣同士の席で過ごす内に、だんだんと美鶴のことが分かってきた。  泳ぎが苦手な美鶴であったが走るのは速く、その噂をどこから聞きつけたのかは知らないが、陸上部をはじめとする運動部員たちが何度も部活勧誘に来た。しかし美鶴は運動以上に芸術のセンスがあり、たった一時間の美術の授業で仕上げた石膏像のデッサンを美術教師にたいそう褒められていた。美鶴は美術部に入部し、放課後に美術室を覗くと、秋らしい、真っ赤に紅葉した樹木の絵をキャンバスいっぱいに描いていた。  また学業面で言えば、彼女は英語が苦手で、逆に国語が得意のようだった。よく読書をしているところは見かけていたから、文章を読むのが好きなのだろうと思い込んでいたが、それは日本語限定でのことらしい。  ある日の放課後、美鶴から英語の宿題を手伝ってほしいと頼まれたつばめは、英文法について教えながら「何だか意外だなあ」と呟いた。 「何が?」 「美鶴さんが英語苦手なんて」 「あら、どうして?」 「だって、国語は得意なんでしょ? あたしの知ってる限り、国語が得意な子は英語も得意って言うよ」 「そうなの」  美鶴はペンを置いて頬に手を当て、考える仕草を見せた。 「そうね、英語は……日頃あまり触れる機会がなかったから、苦手意識があるのかしら」  確かに、こんな田舎にいれば外国人に会う機会などめったにない。普段英語に触れる機会と言えば、それこそ英語の授業か、テレビで放送される洋画の字幕版くらいである。 「でも国語は昔から話すし、聞くし、読み書きもするじゃない。慣れの問題だと思うのよ。わたしは英語に触れない期間が長過ぎたのだわ」 「長過ぎって、美鶴さん、あたしと同い年じゃない」  長いと言っても、たかだか十四年である。「そんなものこれからどうにでもなるから」と言うと、美鶴は「そうかしらね」と困ったように笑っていた。その笑顔は可愛らしいと言うよりも、絵画的な美しさを湛えていた。  美鶴のことが分かってきたとはいえ、もちろん分からないこともたくさんあった。近くに住んでいるはずなのに彼女の家の場所は分からないし、家族構成も見えてこない。帰宅後家では何をしているのかも、どんな趣味があるのかも、転入してくる前はどこにいてどんな学校に通っていたのかも知らない。プライベートな部分が一切うかがい知れないのである。  しかしそれを訊ねようという気は、つばめには一切なかった。藤原美鶴とはそういう人なのだと、見えない手に操作されるかのように納得してしまっていた。  始業式から一週間が経った。授業を受け、部活に出席し、夏休み前と変わらないような生活を送っているが、確実に変わったこともある。一つ目はつばめのクラスに藤原美鶴という転入生がやってきたことだ。きっかけはただ隣の席だったというそれだけのことではあるが、彼女と親しくなったつばめは、毎日登校するのが楽しかった。  そして二つ目は、連続通り魔事件のことである。つばめたちが夏休みに入ってから起こり始めたこの事件は、最初に発生してから三日と置かずに起こり続けていた。しかし九月になってからの一週間、事件は一度も起きていない。警察や学校では今でも定期的に注意を呼び掛けているが、マスコミなんかはより凶悪な事件の報道に忙しいようで、通り魔のとの字も言わなくなった。メディアで聞かなくなれば、初めの内は警戒していた近隣住民たちも徐々に気が緩み始める。最近ではまた、一人で外を出歩く人がぽつぽつと増え始めた。  つばめは家を出てから学校に着くまで姉とずっと一緒であるから一人になることはまずないが、登下校中一人の生徒はよく見かける。美鶴もその一人だ。通り魔犯はまだ捕まっていないというのに危険ではないだろうか。 「やっぱり女の子が一人で歩くのは危ないよ」  登校中つぐみにそうこぼすと、つぐみからは予想に反した答えが返ってきた。 「つばめ、よほど美鶴さんが気に入ってるんだね」 「え?」 「美鶴さんが転入してきてから、つばめ、うちのクラスに来なくなったもの」 「そう……かな」  指摘されるまでは意識していなかったが、確かに最近、隣のクラスに遊びに行くことはほとんどなくなった。もちろん姉や二組の生徒と不仲になった訳ではなく、それ以外で何か理由があるとすれば、やはり美鶴なのである。休み時間を美鶴と過ごしていると、二組に行く必要がないのだ。 「よくうちのクラスに来てたから、つばめはクラスに友だちがいないんじゃないかと思って心配してたんだけど」 「友だちいない訳じゃないんだけどね……っていうか、あたし心配されてた?」 「まあね。でもその様子なら大丈夫そうだね」  つぐみから心配されていたということには気付かなかったが、とにかく今つばめは、美鶴と過ごすのが楽しいのである。 「心配ないよ」  そう言うとつぐみは、安心したかのように頷いていた。  この日の一限目、体育の授業はやはり水泳だった。苦手なりに何とか一時間やり過ごし、授業は何事もなく終わったが、事件はその後起こった。  更衣室で制服に着替え、教室に戻る途中のことである。つばめの隣を歩いていた美鶴が倒れたのだ。 「美鶴さん!?」  声を掛けると意識はあるようだが自力で立つのは難しいらしい。近くにいたクラスメイトと一緒に美鶴を支え、何とか保健室へ向かった。先生が不在であった為、とりあえず美鶴はベッドに寝かせたが、問題はこれからどうするかということである。次の授業の開始時間が迫っていたが、身体の動かない美鶴をこのまま一人にすることは出来ない。仕方なく、つばめと美鶴が保健室にいる旨を次の授業の担当教員に伝えるようクラスメイトに頼み、つばめはベッド脇の丸椅子に腰を下ろした。  美鶴に布団を掛けながら、つばめは彼女の髪が気にかかった。相変わらず彼女は顔を水につけることが出来ず泳いでもいなかったが、団子状に結われた長い髪が全く濡れていない訳ではない。枕を濡らしてはいけないと思い、自分のビニールバッグから使っていないスポーツタオルを出して、美鶴と枕の間に入れた。  静かに美鶴の頭を枕へ戻そうとして、手が滑ってしまった。美鶴の頭は枕に落ち、弾んだ反動で、彼女の髪型が崩れた。髪の間からは、象牙色をした円錐形のものが顔を出した。 「ん? 何かついてるけど……」  伸ばしたつばめの手を美鶴が払い退けた。 「あれ、美鶴さん、動ける? 大丈夫?」  それには答えず、美鶴は身体を起こした。髪をほどく。黒い艶やかな髪が背中に広がる。  先ほどまで団子があったところに覗く円錐は、角と呼ぶにふさわしかった。 「やはり駄目ね……きらなければ」 「美鶴さん?」  つばめの問いかけに答えることなく、美鶴はつばめの目をまっすぐに見据える。いつもの美鶴の穏やかさなどない、冷たい視線なのに、なぜかつばめは彼女から目を逸らすことが出来ない。 「ねえ、つばめさん……」  美鶴の爪が鋭く伸びた。 「あなた、人斬り鬼、って信じるかしら?」  爪は蛍光灯の光を鈍く反射した。    ◆ 「……っていう夢を見たの」  九月一日、朝七時半。妹のつばめが登校途中に話したのは、転入生と人斬り鬼が出てきたという夢の話だった。 「何か嫌な夢だね。つばめは最後どうなったの?」 「分かんない。保健室で斬りつけられて、そこで目が覚めたんだもん」  怖かったんだから! とつばめは言うが、所詮夢の話である。つばめに霊感だとか予知夢だとかそんなスピリチュアルな能力があるなんていう話を、つぐみはこれまでに聞いたことがない。  確かに最近、この辺りでは連続通り魔事件が発生していた。毎日のようにニュースで報道されていたし、昨日は学校から『登校時は必ず複数人で歩くように』という電話連絡網も回ってきた。現実のような夢を見て怖い気持ちは分かるが、連日そんな話を聞き続けていれば夢にも出ると言うものである。  そして人斬り鬼だ。鬼だなんて、そんな非現実的なものがいるはずがない。 「忘れちゃいなさいよ、そんな夢」  教室前で一言、つばめにそう告げると、つぐみは二年二組の教室に入った。  自分の席に着いて隣の席のクラスメイトと話をしていると、教室後方から「ビッグニュースだよ!」という声が聞こえてきた。声の主は今日の日直で、両手に机と椅子を一組抱えている。  まさか、そんなことがあるはずがない。つぐみは聞き流そうとしたが、日直の次の台詞に、心臓がどくんと大きく脈を打った。 「今日から転入生が来るんだって、女の子! 藤原美鶴さんっていうらしいよ!」